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なむさんところの歌仙が満尾

歌仙「踊」が満尾ざんす。→http://8408.teacup.com/namubow/bbs
by tenki00 | 2006-11-19 00:43 | kasen

微妙なところを衝いてくる

YouTubeでオツな音楽映像を探すとき、ミュージシャン名で検索をかけるのが、まずひとつ。もうひとつ、おもすろい趣味の人を見つけて、その人のアップしているファイルのラインナップを眺める手がある。

例えば→http://www.youtube.com/profile?user=ken1132

この人(プロフィールによれば31歳・日本人)のラインアップは、ハイフェッツから古いジャズやら女性ボーカル、果てはビージーズ(小さな恋のメロディ!)まで、ジャンル・嗜好がバラバラなのだけれど、なんか微妙なところを衝いてくる。ヘンな人。

なかでも繰り返し聞いて(見て)しまったのは、これ。
Blossom Dearie - Dusty Springfield
http://www.youtube.com/watch?v=LVlYuViO4w8

ブロッサム・ディアリーの声は、ああ、なんというか、1年に2回は聞きたい声ざんす。
by tenki00 | 2006-11-17 23:59 | pastime

豆の木 11月の2句競作 より

毎月、全員が、ではないが、2句ずつ競作。2句という数がちょうどいい。鑑賞は本来、豆の木の掲示板でやることなんだけれど、なぜだか、ここに。

秋の日の進化の果ての木魚かな    遠藤 治

「日の」は木魚に掛かると読みたい。すなわち秋の日が進化して木魚になるのではない。「日の」で軽く切れる。某句会への選評(たしか特選でいただいた)を繰り返すことになるが、地球上の事象を異星人が描いたような句は、どんな句であれ特別に素晴らしい。何百年か後、人類が絶滅した地球に降り立った異星人が、魚と木魚を見比べて、また文献にある「魚」と「木魚」をどう結びつけるか? この句のようにドジな異星人だったら、とても愉快。

台風が塩ラーメンとなりにけり  宮本佳世乃

俳句的断定は、100人中99人には見向きもされぬことが大事。数を頼んではいけない。こんな断定、誰が首肯するか。首肯を求める物欲しげな句は、所詮卑しい。この句は輝くばかりに神々しい。「塩ラーメン」の情けなさはどうだ? ほとんど天国的に、情けない。

フォークダンス宇宙だんだん近づきぬ  宮本佳世乃

クスリもケムリもなしに宇宙が近づくことは、たまにあるだろう。トランスを促す音楽も種々存在するが、それは例えば「サイケデリック」と直截的に呼ばれる音楽。それなりにスペイシー(笑)であったりもするが、「フォークダンス」の情けなさは、またもやほとんど天国的。フォークダンスのさなか、近づく宇宙とは、どうだ? フォークダンス以上に情けない。ここまで情けない「宇宙」を味わったのは初めてだ。さらに言えば、史上最も情けない宇宙かもしれない。大好き句。
by tenki00 | 2006-11-16 19:53 | haiku

トニー谷主義ざんす(あらためて)

書くものにカタカナやアルファベットが多いという指摘を、酒席でいただいた。

だからあ、トニー谷主義だってば。必読参照記事⇒http://tenki00.exblog.jp/3417229/

トニー谷主義的俳句批評宣言!

簡単に言えば、ハイカラ(死語)な俳句的言説の試み。ハイカラの懐かしさはけっこう大事。

結局、総合的には、あまり深く考えないように。本人がこんなですから、くれぐれも。

なお「ざます」は、似ているがちょっと違う。
参考:ムッシュ・ピエール http://vernonsbar.com/magician/pierrphoto01.htm
「ざます」は「ざます」で女流俳人を中心に流行してほしいという小さな願いをもっている。
by tenki00 | 2006-11-14 22:32 | haiku

嗜好の変化

エルヴィス・コステロの声が苦手だった。昔からおもしろいことをやってることはわかっていたが、声が苦手。これは生理。どうしようもない。ところが、ある日、その声がいやじゃなくなった。

タイミング的には、バート・バカラックとの共作アルバムを聞いたあたりからか。バラードを聞いていて、切なく心地よかった。そのうちアップテンポだろうがなんだろうが、その声が気にならなくなり、むしろ「好きな声」になってしまった。

そうした嗜好の変化は、自分でも説明できない。理由なんてないのだろう。あるときを境に、ころっと変わってしまう。おもいしろいものだ。

で、なんなのかというと、それだけの話。

では、その Elvis Costello / Burt Bacharach の Painted From Memory をどうぞ。
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=488096
by tenki00 | 2006-11-13 21:41 | pastime

「声」やら「音」やら 作者と俳句の関係とのからみで

前エントリへの樹さんとあやかさんのコメントに関して。

お二人のコメントを拝読して、思ったのはまず次のようなこと。「声」というのは、思いきってざっくりまとめると、パーソナルな要素を強くもつ。作者=発する人。出所がはっきりしている。アタマの操作(心の発露でもいけど)から筆記へといたる過程よりも生々しい。

生々しさを忌避するんですね。ある種の人びとは。※これには当然、私も含まれる。

生々しさを回避するために、「音」と比喩してももちろんさしつかえない。だが、比喩は言葉の操作、本質が変わるわけではない。

だからダメというのではない。これは結局、(再三書いているように)人それぞれが解決すべきこと。樹さんもあやかさんも、それは承知でおっしゃっているからいいのですが、これを俳句全般に広げると、教条的になる。「人それぞれ」と拡散させておいたほうがよいことはたくさんある。※「俳句とは?論」に持っていったほうが見栄えがする(spectacular)が、私自身、それらに与しないことは多い(好みの問題でもある)。

話が逸れた。戻すと、自分と俳句の関わりを探っていくとき、比喩もまた有効。

あやかさんのブログの記事には次のようにある。
俳句は放つものだと思う。もう少しかっこよくなく言えば、放るものか。

音っぽい。

記事にある「棒切れ」は、コメント欄にある「箸」でもあろう。比喩に一貫性があることは大事。これは、あやかさんのコメントにある「愛される自信」うんぬんとは、きっと別の話だろう。それぞれが自身と俳句の関係を、比喩を駆使しながら探っていくという営みだ。音であれ、寝言であれ。

一方、俳句との関係についてのあれこれの思いや考えも、コメント欄には示されている。「声」と無関係な話題ではない。

樹さんの自己表現と思って俳句遊びしてないというスタンスも、あやかさんのどこからか来た言葉の音を体内で感じて吟味する工程という把握も、私のスタンスや把握に近い。後者は思念的な弱さはあるが(自戒を込めて)。

これらについては、改めて書くよりも、過去記事を挙げておく。
http://tenki00.exblog.jp/3165892/ 「私は俳句である」
http://tenki00.exblog.jp/3170658/ 「私」と俳句の関係

要点のひとつをみずから引いておけば、次の箇所。
とはいえ、句は、天から授かるはずはなく、幸か不幸か、作者からしか出てきようがない。だが、しかし、俳句のもつ悦ばしき匿名・無名を思えば、句の誕生を、俳句という型が作者を通してテキストに定着すること(そのとき作者は「フィルター」のイメージだろうか)と言えなくもない。否、そのほうが、よほど清々しい。

ここでは、テキストという語を用いているので、「字」っぽいが、テキストの対象範囲は広い。「声というテキスト」と捉えても、おそらく齟齬はない。

私が発するのではない。私というフィルターを通して発せられる声。それを譬えるなら、「寝言」であり「鼻唄」ということになる。再三申し上げるが、私の場合は、という話。

そんなところざんす。
by tenki00 | 2006-11-10 23:58 | haiku

「声」にまつわる含羞

前エントリ「俳句は「声」です、はい」へのあやかさんのコメント。
「声」という言葉が恥ずかしいのかもしれません。

なるほど「声」はたしかに恥ずかしい。

これにはきっと歴史的事情もからんでいる。「声」は、あげるもの(民の声)、届くべきもの、聞くべきもの。いや、政治的脈絡を持ち込まずとも、「声」には、なんだか「主張」がある。ジコシュチョウ。それやこれやで「声」は恥ずかしい。このことはよくわかる。

けれども、俳句の「声」、少なくとも私が思うところの「声」は、そのようなたぐいの声ではない。それを逃れるのに、どのような「声」ならいいのか。むずかしいところだが、句をつくるとき、そこにこそ注意を集中する。腐心する。

大声で叫ぶような句。多くの人に向かって拡声器をふりかざすような句。他人に口を挟ませないほど多弁な句。人を滔々と諭すような句。スポットライトの中でひとり朗々と歌うような句。比喩でしか接近できないが、俳句のもつ「声」はいろいろだ。

どんな声がよいのか。それは、自分で考えることだろう。比喩でいいから。

私? 自分の句がこんな声だったらいいな、と思う声?

それは「寝言」のような「鼻唄」のような声。で、ちょっと関西弁。

人によっては自嘲と解釈するかもしれないが、そうではない。寝言のような鼻唄のような句ができたら本望だ。「寝言や鼻唄なんぞ聞きたくない!」とおっしゃる方には、「はい。すみません」と謝り、お引き取り願うしかない。私の寝言・鼻歌をおもしろがってくれる人がひとりくらいはいるだろうという楽観主義で、これからも行く。

ただし、これは自分自身の句の話。他人様の句の話ではない。どんな声の備わった句をつくっていくかは、人それぞれ。自分で恥ずかしくないような「声」を探していくしかない。「声」にまつわる含羞という問題を解決するには、それ以外に道はないのだと思う。

それにね、「声」を他の語に言い換えようとすると、もっと恥ずかしくなる。「つぶやき」だとか「ささやき」だとか「叫び」だとか。「17文字のささやき」「五七五の叫び」。……。恥ずかしくて死にそうだ。

だから「声」は「声」とするしかない。そのうえでいかに恥ずかしくなく、俳句を遊んでいけるか、だ。それには声の質について考えていくしか道はない。含羞のある人間にとって。

一方、「字」へと還元あるいは昇華させることで、含羞を解決するのは、まちがっているとは言わないが、一種の逃避ではあると思う。俳句は、やはり詠うもの、詠じるものだろう。「書くこと」へと絞り込むことで、もともとの感情的・知的操作のなんだかんだをゴハサンにして、クールな「文体」なり「エクリチュール」なりを獲得できるものなのか? そんなことはないだろう。

このことは、俳句がもともと、「声」にまつわる恥ずかしさを備えていることを思い出させてくれるものでもある。「声」が恥ずかしいという人(私も含め)に訊く。「じゃあ、俳句は恥ずかしくないのか?」

話が広がりすぎた。まとめると、「声」は恥ずかしい。ならば、どんな声なら恥ずかしくないかを考えるしかない。
by tenki00 | 2006-11-09 22:27 | haiku

俳句は「声」です、はい

俳句における「声」と「字」について、ぽろっと口にしたことを、たじまさんが、例によってラディカルに論じてくれて、ざっと読んでも丹念に読んでも、ちょっとややこしい。
http://moon.ap.teacup.com/tajima/300.html
※余談。「天気氏」って、やっぱりヘン。なぜヘンかって、田島氏とは言うけど、健一氏とは言わないもの。わかった?たじまさん。「天気さん」でいいです、ふつーに。

声か字か。あらためてこう問われて、「なんとなく」「私にとっては」等、もやもやと答えていたが、実ははっきりしている。俳句は「声」である。

なぜかというに、五七五だから。

俳句の「五七五」とは五音七音五音ということで、五文字七文字五文字ではない。五七五と俳句を切り離さないかぎり、俳句が「声」でない理由はどこにもなく、俳句が「字」である理由はどこにもない。五七五を無視して俳句を語る人はまずいないだろう。

したがって、俳句は声です。あきらかに。

終わり。

って、終わってしまうわけですが、たじまさん。まあ、なぜ「字」のことがアタマのなかを占めるようになるのだろう?という問いは考えてみてもいい。声(あるいは音)を保存・複製するための「字」に過ぎない。また表記は、声(音)を効果的に伝えるための道具に過ぎない。にもかかわらず、実際には「字」や「表記」はえらく幅をきかせている。そのへんの事情を考えてみる価値はありそうだ。

表記(の工夫)をやたら重大視したり、表記そのものを俳句とみなす「表記フェティシズム」。好みで言えば嫌いだし、興味もわかないけれど。
※表記は、目に入らない、気づかない、が理想と思っている。つまり表記のいかんが気にとまることなくすんなりと句が呑み込める、が表記の最善形。

というわけで、俳句=声、という結論ははっきりしたわけだが、そこから広がる話題も多い(上記「字」「表記」ということとは別に)。断片的に挙げておくと。

1) 俳句の場合、作者の叙法より話法と捉えるほうが(私には)すっきりする。筆致ではなく口調。
2) 俳句が声であることは、実はみな承知で、句を評するときの「言いすぎ」という言い方もその証拠。私個人の語彙かもしれないが、「おしゃべりの過ぎる句」「声のでかすぎる句」という捉え方もする。
3) 鴇田智哉『こゑふたつ』
4) 句会のとき、選句した他人様の句を読み上げるとき、じゃまくさそうにぶっきらぼうに読む人、恥ずかしそうに小さい声で読む人がいますね。あれは、ダメよ。できるかぎり「素晴らしく」読み上げないと。素晴らしく読み上げることは、句への愛、さらには俳句への愛の表明なんだから。

こう挙げていくと、俳句=声という確信がますます深まっていくざんす。
by tenki00 | 2006-11-08 22:17 | haiku

俳句漫遊記95 中島斌雄

象の皺一日だけの雪降れり  斌雄

象の近景。街での暮らしです。アフリカじゃないわけだ、ってチャチャ入れないで。
明日には降っていない雪。なんでそんなことがわかる?などというツッコミは無用。
今日の雪が降る。
この句がなぜこんなにせつなく胸にしみるのか。それは、理由がないから。
句と心の作用の関係を叙述しきれないとき、句はもっともいい音を出す。いい響きを奏でる。

掲句は1976年作。『肉声』(1979)所収。
by tenki00 | 2006-11-07 22:41 | haiku-manyuuki

コンピ句 compi-ku ちょっと色っぽいところを

べつべつのところで作られた2句をむりやり同衾させてしまう。

身の芯を一直線に寒気団  小野富美子

その朝の夢の猟銃なる角度  佐山哲郎
身体感覚を詠む女流俳人は多い。男性にとって、という身勝手な但し書きがつくが、ちょっと間接的に詠んでくれたほうがありがたい。粋な色っぽさが出る。もろ臓器だとか部位だとか、もろ交尾だとか、よりも、ね。

「猟銃」が何を指すかは説明させないでほしい。2つ並べると、1句と1句で味わうのとはまた別の感興。感興の意味がわかんねえ、という方は、……まあ、わからんでよろしい。

掲句(上)は聞き覚え。富美子姐さんは「麦」の先輩。掲句(下)は佐山哲郎句集『東京ぱれおろがす』(西田書店2003)所収。

このおふたりのコンピ句、もうワンセット見つけた。

花筵ここは一服盛るところ  哲郎

満山の桜耳朶より火照りくる  富美子
掲句(上)は同じく『東京ぱれおろがす』所収、掲句(下)は聞き覚え。


オヤジネタです、はい。
by tenki00 | 2006-11-05 01:15 | haiku