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トニー谷主義宣言

何を思ったのか「ざんす」づいてしまい、それならいっそのこと、トニー谷主義俳句批評宣言。

1) とりあえず「ざんす」を付ける。
2) 享楽主義ざんす。
3) スタイリッシュに気取っているつもりが、靴下が伸びている。って、それはイヤミ氏。
4) きらいなものは、スノビズム、権威主義、教条主義。
5) フランスに行ったこともなくフランス語もろくすっぽできないのに、ときおりフランス現代思想を援用する。d0022722_1958687.jpg
6) 「おフランス語」に限らず、カタカナ語を頻繁に使う。
7) 先のことをまったく考えない。失うもの皆無。
8) 多くに愛されようとしない。結果、たとえ誰からも愛されずとも。
9) しばしば正気ではないが、つねに本気。
10) 必聴CD:This Is Mr Toni Tani
11) 以上、トニー谷主義は、飽きられても続けるが、飽きたら、やめる。


とにーたにしゅぎ。ちょっと舌が回りにくい。
by tenki00 | 2006-07-24 23:03 | haiku

葉月さんのメールマガジンⅡ

早くも「その四」が届いた。しょうじき、ツラい。もうすこし、がんばらないと。葉月さん。

1) この手のものは、社会的事実に拠るほかなく、社会的事実を尊重するほかない。「ほかない」とは、そうでなければ、論考そのものが存立し得ないという意味。そうしないなら、それができないなら、「これはファンタジー(妄想)である」と最初にことわるべき。ちなみに、私自身は、他人様の妄想を読む暇があるなら、他に読みたいものが五万とある。

2) この手のものは、論理によらざるを得ない。「よらざるを得ない」という意味は、論理以外に伝えるべきものがないということ。

3) 個人的なことをいえば、私自身、「乳」や「きれえなおねえさん」は嫌いではない。そうとう好きかもしれない。だが、乳「の話」や、きれえなおねえさん「の話」に興味はない。

なんの話かわからない人は、購読申し込みを。はいはい、お申し込みはこちらざんす。
by tenki00 | 2006-07-24 22:09 | pastime

葉月さんのメールマガジン

先般、紹介させていただいたものだが、そのメールマガジンが届いた。ところが「その三」となっている。「その三」から始まるのか? そんなことはなかろうと、メールボックスを探したが、「その一」「その二」はない。どうやら、捨ててしまったらしい。文面冒頭タイトルに「乳」なんて字があるので、反射的に削除したのだろう。まあ、それは私の不注意だからしかたがないが、「その四」に話が行く前に、葉月さんにひとこと伝えておきたい。

資産が父系で継承されるとは限らない。母系継承の事例は、「例外」になどできぬほど多数。ついでに言えば、資産の種類によって父系・母系の双方で分担して継承される社会もある。この一般的事実を無視することなく「その四」に進んでいただきたい。

なんの話かわからない人は、即、購読申し込みを。はいはい、申し込みはこちらざんす。
by tenki00 | 2006-07-23 12:51 | pastime

俳句漫遊記85 エリック?

エリックのばかばかばかと桜降る  太田うさぎ

エリックって誰?

とりあえず恋歌と読む。「ばかばかばか」と囃しているのでは断じてなく、「ばかばかばか」と胸を叩いている。コケティッシュな女性(あるいは男性)の挙措。ここで現実の作者像と結びつける必要はない。ともかく、そんなシーン。エリックの胸はそれほど厚くない。シャツの襟ぐりからはみ出すほどの胸毛でもない。それは、桜の降るようなこと、というか、桜が降ることそのものなのだろう(このあたりの論旨は自覚的迷走の手法。どんな手法だ?)。

そのものであることで、だか、なんだか、句は、先に私がほざいたようなドラマから逃れる。意味から逃れ、印象から逃れ、表層だけをあらわにする。

エリックとは、エリック・ドルフィーでも、エリック・ロメールでも、E.H.エリックでもない。誰かを連想してはいけない。エリックはただの名前であった。ただの4音であった。桜は? 桜はただ降るのみ。ワンダフルな表層俳句(*)ざんす。

掲句は『豆の木第10号』(2006)所収。

(*)表層俳句については旧ブログのこの↓記事を参照。http://sky.ap.teacup.com/tenki/112.html
by tenki00 | 2006-07-22 23:42 | haiku-manyuuki

牛乳屋

d0022722_16482384.jpg牛 乳 屋  さいばらてんき人名10句

またしても美輪明宏がせせらぎに   参考
かはほりの空ウヰルヘルム・レントゲン   参考
梅雨雲に白木みのるを結はへおく   参考
高濱虚子の生まれかはりの牛乳屋   参考
昼寝からとんぼがへりのロビン・ギル   参考
懸垂の横山やすし大西日   参考
カトリーヌ・ドヌーブ嘘のやうな雨   参考
おたくから水が漏れますなだいなだ   参考
また別の白痴に出逢ふ草田男忌   参考
法学部政治学科のドナ・サマー   参考

100題100句より; 021~030
バックナンバー; 001~010 011~020

ふー。やっと30番。先は長い。題詠かつ人名は、きついざんす。
by tenki00 | 2006-07-21 23:17 | tenki-ku

ピアセンのピアソラ

ピアノの先生(略してピアセン)をしているyuki氏はいま、生徒さんの発表会の準備に忙しい。2台ピアノの相棒、まりちゃん(同じくピアセン)の生徒さんと合同の発表会で、生徒さんにまじってピアセン2人が2台ピアノの曲を演奏するのが毎年の恒例。今年の演目はピアソラとナザレーのタンゴ曲1曲ずつ2曲。

d0022722_1141130.jpgひとり練習しているyuki氏から、「タンゴの乗り」のようなことを訊ねられたが、そんなこと聞かれてもわからないので、ピアソラのTango Zero Hour というCD (Kip Hanrahan のプロデュースざんす) を大ヴォリュームで鳴らした。すこしのあいだじっと聞いてから、また練習を始めると、たいしたものだ、さっきとまったく違うふうに弾く。断然ニュアンスが出ている。語るなんでムダ、食い物は食え、音楽は聞け、ということか。俳句も、そう? ぐじゃぐじゃ言ってないで、読め、そして詠め、ということ。

アルゼンチン・タンゴ。いいんですよね、なんとも。
by tenki00 | 2006-07-20 23:07 | pastime

俳句漫遊記84 俳句ということ

烏山肛門科クリニックああ俳句のようだ  上野葉月

誕生のときに立ち会っていたかったと思う句がある。例えば句会で、その句が出て、それをいただくという体験ができていたら、どんなに幸せだろうと思う句がある。掲句は、そんな句だ。

この句は、「俳句として」圧倒的である。一方、「俳句として」でなければ、圧倒的どころか、ほとんどその価値を見出せないような代物である。だが、このテクストの輝かしい事件性を前にして、そんな条件付きの興醒め(disenchantment)は無粋である。これは「俳句」なのであり、ここで私たちが立ち会うのは「俳句」のもつ魔法(enchantment)なのだから。

俳句の持つ集合性・歴史性と、このようなかたちで幸福に出会う句というものもあるのだ。

季語は「肛門」で春。ウソです。無季でしょう。実は、先ほどもこの肛門科クリニックの前を走って家に帰ってきたのだが、実際には「烏山肛門科クリニック」ではなく「烏山肛門大腸泌尿器クリニック」。まあ、省略くらい、あっていいし、事実でなくてもかまわない。葉月さんは、この肛門科クリニックの前を自転車で走りながら、ということは肛門をサドルで痛めつけながら、この句を捻り出したのだろう。

21世紀初頭を代表する句のひとつであると確信する(私は本気ざんす。正気ざんす)。

掲句は『豆の木第10号』(2006)所収。
by tenki00 | 2006-07-19 23:06 | haiku-manyuuki

歳時記を買うの巻 第4回 無季の歳時記

前回取り上げた『現代俳句歳時記』(現代俳句協会編・1999)のもうひとつの特徴は「通季」および「無季」という不思議なカテゴリーが設けられ、頁が割かれている点だ。「通季」は「現代の生活の中で季節性が薄れ、どの季節と決め難くなっている季語」(金子兜太「序に代えて」以下同)で、例えば、シャボン玉、ブランコ、風車(かざぐるま)、相撲、鮨など。「無季」の項には、空、地球、ビル、人間、豆腐、牛など、かなりの数にのぼる語が収められているが、何を基準に無季語として登録されたのかは不明。「無季」を「歳時記」に含めた根拠については、金子兜太の一文を以下に引く。

歳時記に何故「無季」語が入るのかと疑念を持つ向きは、歳時記の成り立ちを承知していないのではなかろうか。歳時記の名称は、もともと中国の行事暦や生活暦に関する書を指している。これを季によって整理するようになるのは、連歌の発生普及による。(…略…)広義に受け取って歳時記とは「歳事にかかわる語の集成」とすることが歴史的も正しいのであって、これを単なる季語集とするのは狭い。歳事とは一年中の出来事であり、仕事の謂である。近代から現代へと私たちの生活は、海外からのさまざまな文化・文明を受容し消化しながら、拡大し複雑化してきた。それに伴って言葉も多様化し、季によって整理される語が増加する一方では無季の語も増えている。季語を増加させながら、無季語をも収録していく。それは自然な行為であって、歳時記のあるべき姿なのだ。

金子兜太の文章は勢いがあって、いい。勢いがあるから、信じてしまいそうだが、内容はかなり怪しい。

前半の「歳時記」の本来の意味はたしかにそうだろう。しかし。この本は「俳句歳時記」なのだ。また、話の本筋ではないが、「原則論は、実用主義には勝てない」という事態も、この『現代俳句歳時記』の立場を微妙なものにする。例えば、パソコンは情報処理の機械であるといくら謳っても、買う人の多くは「インターネットが見たいから」「年賀ハガキが自分でつくれるから」という理由で買う。圧倒的多数の俳人は、「歳事にかかわる語の集成」が読みたくて俳句歳時記を手にとるのではない。句を捻るため、あるいは他人の句を読むときの助けに頁をめくるのだ。

後半は、意味不明。「私たちの生活の拡大・複雑化」「それに伴って言葉も多様化」というあたりの雑駁さ(拡大・複雑化する以前の近代の生活って何? だいたいが生活の単純・複雑って何? 多様化する以前の言葉って何?)は大目に見るとしても、「無季語」収録が歳時記の「あるべき姿」であるとする論旨に説得性はない。

きっと、順序が逆なのだ。無季句が存在する(江戸期から現在まで)。これはたしかにそうである。「季語」によって整理される(従来の)俳句歳時記には、無季句は収録されない。当たり前だ。そこで、無季句を収録するために「無季」という不思議なカテゴリーが作られた。そう考えざるを得ない。例えば、「空」という「無季」語の項に挙げられた例句「君もさぞ空をどこらを此夕」(鬼貫)で、「空」を「無季」語として抽出し、「君」や「夕」を「無季」語として抽出しない、その根拠は見つからない。

もう一度言うが、金子兜太の散文は、いい。少なくとも私は好きだ。『一茶句集』とかいう本など、おもしろいぜー。素晴らしくがさつな文章なのだ。でも、「序に代えて」のこの部分はいただけない。

この『現代俳句歳時記』は、拠って立つところに説得力がないので、おのずと全体に「力」のない書物になっている。季語の解説はハンパだし、例句の部分は、現代俳句協会の「会員の作品集でもある」(金子兜太・同前)という有り難い代物で、バラツキは相当なものだ。例句の掲載された会員に買わせる「紳士録商法」は、他の多くの歳時記と同様。「おいおい!」と言いたくなる句の含有率は、ざっと見たところ、他のどの歳時記にも引けをとらない(抜群かもしれない)。

また、例えば、缶ジュースの缶に「露」がついているという句が、「露」(秋)の項の例句として収められているところなど、りっぱにトンデモ本の資格があると思うが、現代俳人にとっては、草葉だろうが缶ジュースだろうがコンクリート家屋だろうが、そこにある露は露、秋の季語、ということなのだろう。(露木茂は秋の季語? いや茂だから夏? いやいや無季語か? それとも「二季」というカテゴリーを新設するか)

そういえば、これを底本に、学研文庫版「現代俳句歳時記」が刊行になっているらしい。

いずれにせよ、ひとつ言えるのは、本はまじめに作んなきゃあね、ということ。

念のために言っておくと、「まじめ」というのは「手間や時間をかけること」と同じではない(このへん誤解が多い)。この「現代俳句歳時記」も手間と時間はかかっていそうだ。誠にご愁傷様である。
by tenki00 | 2006-07-18 23:10 | haiku

オクンチのお知らせ

9の付く日のメール句会「オクンチ」の投句〆切は明晩10時。
今回は、園をさんから苑をさんに改名なすった苑をさんがゲストお当番ざんす。
詳しくはこちら→http://www3.ezbbs.net/03/0123/

どなたさまもご遠慮なく!
by tenki00 | 2006-07-18 12:54 | haiku

歳時記を買うの巻 第3回 太陽暦歳時記

句会でよく見かける歳時記は文庫サイズの4巻本、つまり春・夏・秋・冬新年の分冊だろうか。でも、分冊じゃないほうが私には好ましい。季節の変わるたびに持ち歩く歳時記を変えるという、こまめなことができそうにないからだ。一年中使えて、なおかつ持ち歩くにはコンパクトなほうがいい。それなら「季寄せ」がよかったりするが、いやいや「歳時記」で探してみようというのが、このシリーズの趣旨である。

そこで積み上がった本の山をちょっと見遣ると、『現代俳句歳時記』(現代俳句協会編・1999)という横長の歳時記が見つかった。なんで、こんなものがあるのだろう? 買ったのか、いただいたのか、忘れた。995頁・3300円。相当に高い。

特徴のひとつは太陽暦基準。春は3月から5月となる。従来の歳時記の旧暦基準だと、現代の「生活実感」からずれる。そのため太陽暦基準という編集意図である。

たしかに8月が秋という旧暦基準には違和感がある。西瓜割りが夏で、西瓜が秋というのも、しっくり来ない(その理不尽を楽しむという朝比古さんの態度もアリだろうが)。入谷の朝顔市は7月6~8日だが、朝顔は秋の季語。こうした例はいくらもある。

でも、それで、旧来の歳時記に不便を感じるかというと、私自身は感じない。ひとつには、その手の齟齬にあまり頓着しないからだ。朝顔は秋の季語だから、立秋になったら詠もうというふうには考えない。朝顔が詠みたいときに詠む。詠みたいときが7月なら、詠む。「まだ7月なのに、朝顔なんて!」と顰めっ面をする人もいるかもしれないが、あまり気にしない。

目の前にあるものを詠むから、旧暦歳時記と実感のズレは気にしないという考え方もあるが、ちょっと違う。スーパーに行けばトマトは一年中あるし、西瓜は春から並ぶ(高価だけど)。シーズンインとシーズオフを緩やかに捉えれば、冬にトマトを詠むのは、あまりに唐突なので避ける。そんな融通無碍な「季節感」でも、あまり不自由はしない。

それにまた、年によって季節の移り変わりのタイミングが異なるようにも思う。去年は5月がやたら暑く、8月に入るか入らないかの頃にはすでに「晩夏」の光や空気だった。

当季ということの捉え方も、人それぞれらしい。先般(7月)の句会で、ベテラン俳人(複数)の句に「夏至」「夜の秋」という季語が入っていた。とっくに過ぎた「夏至」、まだ梅雨も明けていない時期に「夜の秋」が当季として出てくることのほうが、私には違和感が大きい。

そんなこんなで、(旧来型)歳時記から実感へのアジャストは、各自それぞれということでいいと思うのだが。

太陽暦採用というだけでは、俳句歳時記として大した存在価値にはならない、というのが私の見方。『現代俳句歳時記』が全体としてどうかといったことは、次回に。

ものすごくつまらない追記;
「花野」という季語を春と勘違いしたとおぼしき句を、今年、ずいぶん見かけた。「花野」が秋で、「お花畑」が夏という振り分けに、私自身まったく実感はないが、「まあ、決まりだから」という感じ。私の場合、正直言えば、同じモチーフの句で、そのときが春なら「春野」、秋なら「花野」くらいのいい加減さだったりもする。
by tenki00 | 2006-07-17 12:05 | haiku