人気ブログランキング |

<   2006年 04月 ( 43 )   > この月の画像一覧

I'm not like everybody else.

IBMのTVコマーシャルでキンクスの I'm Not Like Everybody Else が流れたときは、ちょっとびっくりした。最初はケーブルTVのスポーツ番組の合間に聞き、最近では地上波でも流れているようだ。You Really Got Me はTVでもよく流れるから、キンクスの初期の曲がかかっても吃驚しないが、デイヴ・デイヴィス(レイ・デイヴィスの弟)の歌という点が、なんだか驚きなのだ。

この曲の歌詞は、例によって、ねじまがりひねくれた(kinky)皮肉も含んでいそうで、一筋縄では解せないが、CMの脈絡では、人それぞれがスペシャル、ってな調子だ。

「自分は人とは違う」という思いは、とりわけ若い頃にとっつかまりやすい想念で、なんらかの自分らしさ、他人とは違う個性みたいなものの存在を信じたいと、ほとんどの人が思う。ところが、そのうち(年を経るうち)、たいていの人は「そんなこと、どうでもいいか」と思えるようになり、「自分という病」から快復していく。違ってようが、同じだろうが、実際、どっちでもいいわけで、少なくとも、自分で悩んで、答えが出るものではないことに気づく。

考えてみれば、若いときは、ほとんどの人間が、自分は人とは違う、スペシャルな何かが潜在(顕在)していると思っているわけだから、これほど平凡なことはない。「自分」というものにそうした意味でかかずらわることの凡庸さに、意識的・無意識的に気づいたとき、「自分という物語」とのうまい付き合い方が身につきはじめる。

しかし、いまさらながらに、人はそれぞれにスペシャルだなんてメッセージが流される(まあ、いろいろなシーンでこの手のメッセージは頻繁なのだが)、それもオトナに向けて流されることには、ふう~んという感じ。自己と他者に関する病は永遠。そう言ってしまえばおしまいなのだが、ともかく、デイヴ・デイヴィスの甲高いブリキヴォイス(日本では近藤14郎の専売特許)と、欧米の先端オフィスの画面とのあいだには、微妙な違和があって、このCFが流れるたびに見入ってしまうのだ。

参考→http://www.bmgjapan.com/_artist/item.php?id=1726&item=5639
by tenki00 | 2006-04-22 11:08 | pastime

騒音おばさんとiPod

奈良のおばさんは海外でも有名のようだ。iPodのCFでは、そのソウルフルな叫びをサンプリング。日本では流せないCFだな。
by tenki00 | 2006-04-21 12:01 | pastime

谷ユースケ「正気の街」について

ハイクマシーンさんの緊急企画については、以前、記事にした。私も感想を書いてみようと思いたち、書いた。まずはユースケさん(最近なんだか絡んでますね)の50句から(「正気の街」50句はこちら

*****
「正気の街」はいわゆる意味の上で「了解」しやすい句群ではない。少なくとも私には、「わかりやすい」句はほとんどないが、それが読む妨げになることはない。一方、そのことと表裏を成して、といっていいのだろう、底割れのする句がほとんど見当たらないのは「正気の街」の大きな美点である。底割れとは、仕掛けや発想が明け透けに見えてしまうこと。俳句においてこれを回避することは容易ではない。その意味で「正気の街」は、俳句の持ってしまう灰汁、澱のようなものとは無縁のように思える。それが作者の資質によるものなのか周到な手当によるものなのかはわからない。

さっと一読、日にちを置いてから、かなりじっくりと二度、三度拝読して、私が感じたのは「屈託」ということだった。簡単に言ってしまうようだが、この屈託には肌理があり感触があり、それらの属性は作者固有のものと思える。これは大事なことだ。他の誰のでもない屈託だからだ。他の誰かでもいいような句は、いくら巧妙に設えてあったとしても、その人が作らなければならないというものでもない。作者からいえば、その句を作る必然は、「手習い的」に「称揚」されるのが嬉しいといったことくらいしか残らない。つまり、作るだけムダという側面もある。さて、「正気の街」である。

  初夢に中途半端な鉄ばかり ユースケ(以下同)

その一年はロクなことがなさそうだ。というよりも、きっと彼は初夢に何かを期待したわけではない。だが、鉄。それも中途半端な鉄とは、いかにも中途半端なヴィジョンではないか。悦ばしい事物で一直線に一年の始まりを祝うのでもなく、禍々しい展開でドラチックな感興を醸すでもなく、展開を飄々と裏切る軽やかさを持つでもなく、「鉄ばかり」の視界はその景もまた中途半端で、センチメントの中空に放置される。まあ、そんなこんなで、かなり微妙でおもしろいのだ、この「鉄」への展開は。

  マント吊る白い壁から逃げてきて
  口紅が退屈さうに凍りけり
  甘栗のあかるき五月来たりけり

こうした句に感じる屈託もなかなかに興趣のあるものだ。例えば3句目。「あかるき」「五月」の主役が、ほかでもない「甘栗」なのだ。もっと気持ちのよい句にもできるだろうが、と思ってしまうが、この作者はそうそう一直線ではない。屈託は自覚的でもあるのだろう。だから、含羞もある。

  なすびよく油を吸うて課長の死

「吸ひて」ではなく「吸うて」としたのは作者の「照れ」と見る。「課長の死」などという、ボロボロのどうでもいい座五に照れているのだ。さて、ここで屈託の出自は?と探ってみると、冒頭の3句が私には興味深い。

  お袋をひらけば春の霙かな
  春暁や前世の君の待ちぼうけ
  クッキーに雪崩の味のして二十歳

母を解明する、「君」を前世という虚構に置く。そうしたかなり「ややこしい」思考の手順を踏んだうえ、さて「自分」はというと、「雪崩味するクッキー」のような「二十歳」である。屈託は、作者にとって、大きな時間の末に、言い換えれば、自分からは作用できない「母」や「前世」の末に、「自分」が在るという事実から来る屈託かもしれない。

屈託はまた、思い切って恥ずかしい言い方をしてしまえば、外の世界(コスモス)と自己の軋みのようなものだろう。外界(世間)へと出ていくとき、作者と事物のひとつひとつとに軋みが生じる。「苦渋」「政治学史」とカギ括弧に詰め込まれた物言いが、私には興味深い(苦渋の句が化け字で不完全にしか読めないのが残念だが)。この2つは、最後まで作者と親和しない、外界の仕組みのように思えてくる。「 」を開いてみる気は今のところ、ないのだ。母をひらいたときのように春の霙が出てくる気がしないのだろう。

念のためにいえば、屈託は、世界と作者の相関、それもきわめて固有の相関においていえることで、作者の資質をいうものではない。ひらたくいえば、ここにある屈託とは、作者の内部にあるのではなく、作者と世界が接する皮膚のような場所にある屈託である。この屈託からは、むしろ作者の、まだ「生成(きなり)」の、悪くいえばナイーヴな、良くいえば健全な精神を感じる。そしてこの美しい一句。

  白菜の中に正気の街がある

この句の主眼が「街」であるなら、「正気な」とは舌足らずで、句全体が退屈なものとなる。これは「白菜」を詠んだ句である。すると、「正気の街」という措辞ががぜん生き生きと響きはじめ、美しい白菜が眼前に現れる。正気の街を内包した白菜。これをざくっと切って、出てくるのは、白菜の内部である。街などが出てくるはずはない。

あるとしても、そこには「正気」という目に見えないもの。それが形作る街であり、それはやはり目に見えない。ちなみに、ここに「狂気」を置くほどには、作者はナイーヴではない(言い換えれば、頭が悪くない)。「正気」は手強い。正気の世界の手強さを、作者はすでに知っている。だから軋み、屈託を産むのかもしれない。

以上が、私が「正気の街」に感じた屈託についての、なんだかんだの感想である。ご覧のとおり整理がついているわけではないし、整理して、どうとかというものでもないが、まあ、勝手なことを書いてみただけの話となった。

最後にひとつ、韻律のこと。この作者なら、ややぎくしゃくとして硬質な韻律を、私は好む。

  春昼の地球儀何度廻したことか
  氷菓上空芳しき晴間あり
  月白にジーンズ破れはじめたり
  木枯に乾ききつたるシャツは赤
  狐火や香港映画またはじまる
 
誤解を恐れずいえば、やや懐かしい昭和の韻律。一方、「かな」「けり」「もらふ」「して~」など、緩く柔らかな韻律の句も少なくないが、こちらにはあまり魅力を感じない。ついでにいえば、新仮名遣いに似合う句柄と思うが、このへんは、この手の俳句コンテストが「歴史的仮名遣い贔屓」であることから、戦術的に選択されたことでもあろう。表記にこだわるつもりはないが、歴史的仮名遣いとは相性の悪い作風とは思う。

ユースケさん。これからも御健吟を。
by tenki00 | 2006-04-20 22:57 | haiku

昭和の香り

俳句をやっていると、婆さん、もとい、年上の女性と遊ぶことが多い。そこで、なのだが、今はもうあまり聞かない言い方を耳にすることがある。

「失礼しちゃうわ」

これがそう。今の女子は使わないだろう。意味さえわからないかもしれない。男性も年齢にかかわらず使わない。製造年月日が一定以上に古い女性だけがお使いになるように思う。昭和の香りのする言葉なんだな。

だから、どう、というのではないのだが。
by tenki00 | 2006-04-20 18:33 | pastime

稲毛

麦の会の前会長・田沼さんの句会に出かける。句会のあいだはお元気そうだったが、二次会からお帰りになるとき、横顔に疲労が見えた。ちょっと心配。

  毛の国と稲毛をつなぐ霾ぐもり  天気

稲毛から家に帰ると、yuki氏は、歌の久美恵氏と打ち合わせ中。6月に国立で小さいコンサート(歌とピアノ)をやるので、そのためのもの。終了後、安田氏(コンサートのプログラム解説でしばしばお世話になっている)と4人で食事。めずらしく酔っぱらい大会にはならず、落ち着いた雰囲気のまま夜が更ける。

追記:ユースケさんのブログで句集の体裁や値段の話を読んで思い出したのだが、田沼さんの句集『即自』は、箱付き(箔押し付き)・304頁・500-600部。それで100万程度(郵送代等含まず)であげたのだから、関係者一同、エラかったね。
by tenki00 | 2006-04-20 01:57 | haiku

「豆の木」誌を読む

おかげさまで多方面から「くれ!」「もらってやる!」の声が殺到しております「豆の木」第10号。私ももちろんじっくり読んだ。句誌というからには句がメイン(写真じゃない)。同人諸氏の10句作品の感想などは、豆の木のメーリングリストでそのうち書く機会が来るはずだが、いま言ってしまう。田島健一「剣玉少年」が抜群だった。ここに句を書き抜くことはしないが(まだ読んでない人が多いし)、10句あって9句に魅了される10句組なんて初めてだ(5句目以外、全部いただく)。これは衝撃的。誰かが「いい!」という前に言いたいというだけの記事になってしまうが、言えたから良かった良かった。もちろん他の同人にもおもしろい句が多い(と全方位外交)。

なお、この「豆の木」第10号を入手する方法はいくつかある。
1) このブログに告知しているとおり、わたくしめに、「1冊送れ」と告げる(当たり前だが送り先の住所は必要。「俳句年鑑」で勝手に宛先探せ!という態度はカンベン)。
2) 豆の木のサイトで豆の木の大本営にアプローチする(代金発生します)。掲示板とかで連絡がとれるはず。
3) 豆の木同人にアプローチする(この界隈にもいらっしゃいます。みんなおやさしいのでご安心を。ただし代金発生の有無等、取引形態については当方関知せず)。
以上、お好みでお選びくださいませ。
by tenki00 | 2006-04-19 01:59 | haiku

何かを伝えたいなら、それは俳句じゃないほうがいい

たじまさんの「俳句のかたちについて」という記事が興味深い。
その① http://moon.ap.teacup.com/tajima/169.html
その② http://moon.ap.teacup.com/tajima/170.html
重要なのは「その②」のほう。

●たじまさんは「俳句は表現ではない」とラディカルな捉え方をするが、私は、もっと俗っぽく、具体的に、「俳句は伝達ではない」と捉える。ふたつが同じことがどうかには留保が要るが、遠いことを言っているのではない。●何かを伝えたいなら、俳句ではなく散文のほうがいい。ところが、散文だと長くて面倒だから、短い俳句で、何か(たいていは自分の見たもの、感じたこと、考えること、自分の身に起こったこと)を伝えようとする人がいる。ずぼらにも。●なお、ここで言うのは、いわゆる「報告句」がダメとか、そういう話ではまったくない。●俳句は「何か」を「伝えない」。(おもしろい)俳句は、そこに言葉として在ることによって、何かを生起させる。伝達という機能を拒否する。拒否しないなら、散文で充分だから。●句は、なんらかのコンテンツ(内容)のビークル(乗り物)やメディア(媒介)ではなく、句そのものがコンテンツである。●写真は、(現実のイメージと視線の)媒介ではいられないなくなる(バルトの写真論「明るい部屋」のうろ覚え)。プンクトゥム(突き刺すもの)を持つのは、そういう写真だ(ここもうろ覚え)。●俳句は、(現実の)景、あるいは(現実の)作者と読み手の媒介であることを放棄することで、プンクトゥムを持つ。そして、そうでなければ、読み手にとっての価値はない。伝達であるなら、もっと字数が多いほうが、読者には好都合である。●だから、俳句は伝達ではない。ま、当たり前のことなのだが。●でもね、たいていはね、伝わるように作っちゃうのだ。言い方を変えれば、「伝わってほしい」といった、さもしい心根を引きずったまま「表現」しちゃうのだ。ぶざまにも。●以上、思念的すぎ。わかりにくいなーと思ったら、理解しようとしないよーに。伝える気、ないんだから。散文であるにもかかわらず。●それと、明日になったら違うこと言ってるから、真に受けないよーに。
by tenki00 | 2006-04-18 00:04 | haiku

九のつく日のメール句会

オクンチの〆切は4月19日24:00
http://www3.ezbbs.net/03/0123/

一度やってみるとハマります。どなたさまもお気軽に。
by tenki00 | 2006-04-16 23:41 | haiku

敬愚さんの俳句問答場

敬愚さんによる玄関が出来上がった。こちら↓からどうぞ。
http://www.paraverse.org/haikumondoujouNeg.htm
by tenki00 | 2006-04-16 11:41 | haiku

「社会的に偉い立場」の俳人

若者のブログに連続トラックバック。というだけの感もあるが。

あの方、NHKの人なんですってよ。という記事。

NHK職員、県庁職員、電電公社(古いな)などをエラい人と思うのは、地方出身者の特徴。だからといって、ユースケさんの属性が決定されるわけではないが、人間の社会的属性や帰属を匿すのは、それほど簡単なことではない。

匿名性は、句会だけでなく、というよりも句において大事なこととも思うが、これは深入りすると、とてもややこしい。嘘は、句会での会話よりもむしろ(それだと単なる嘘つきになる)、句において、つくべきものだろう。句会などで、よく、ご自分の句について、「だって、ほんとにそうだったんだもの」とおっしゃる方がいらっしゃるが、「ほんとじゃダメでしょ。嘘くらいつけよ」という話。

話が逸れている、もっとややこしいほうへ。賢明な読者は、このエントリーがすでに一貫性を欠いていることにお気づきのはずで、そのとおり、一貫性はない。

話を戻す。「社会的に偉い立場」の人の話だった。

「社会的に偉い立場」の人はオカネをたくさん持っている確率が高いので、結社などへの相当額の寄付で貢献すべきだろう。例えば、ユースケさんは、早稲田大学の俳句部だから、OBの偉い人から多額の寄付をぶんどれるよう、常に画策すべきなのだ。指導など要らぬ。口は出さずにカネだけ出せと、少々品位を欠いた言い方になるが、そうすべき。

けれども、お金持ちというのはケチでもある。自分の句集は豪華なやつをポコポコ自費出版するのに、他人のためのカネは使わないというパターンも多い。そのへんは、自尊心をくすぐって、うまく出させるのがコツ。

以前、私は、「麦の会」の人に言った。農水関係の国会議員か高級官僚は、会員にいないのか? いたら、「麦の会」を農業振興ということにしてもらって、助成金をたんまりもらいましょう、そうなれば会費は年間1200円くらいですむ、と。でも、実際には、そういう会員はいなくて、実現はしていない。

俳句世界において、苗字でなく下の名前を呼び合う習わしは、実生活での身分の隔たりを、俳句の世界に持ち込まないため、ということもあると聞くが、それは建て前として、実生活の身分格差を巧く利用して、偉い人を大いにおだて、金銭面で組織に貢献させる。これがオトナの知恵というものだ。

だから、ユースケさん。「作品と俳号だけがあれば十分」などと、素直な正論を言ってないで、もうすこし、ひねくれたほうがいい。身分格差を敏感に読み取り、偉い人は、俳句はくだらなくても、ちやほやしなさい。

以上だが、余談として、「第二芸術論」(桑原武夫)の本旨は、芸術ならば「作品」によってのみ作家(俳号)の格やレベルが峻別されるべきはずが、俳句はそうではなく、実生活の身分格差が評価に持ち込まれる傾向が強いよね、それなら、「芸術」だなんて大きな顔されると、他の芸術が迷惑なんよ、「第二」くらいにしときなさい、というもの。これは、俳句世界における古くからの、生臭く退屈だが、厳然として在るテーマなのだな、実に。

ただ、「社会的に偉い立場」の俳人というのが、問題になるかならないかは、句座にもよる。私の関わる句座という句座には、みごとに「社会的に偉い立場」の人間がいない。すがすがしいほど、いない。だから、実のところ、私にはあまり関係がなく、どうでもいいことなのだが、結論を繰り返すと、「偉い人はちやほやしておけ」というのが、私から若者へのささやかな助言である。
by tenki00 | 2006-04-16 01:47 | haiku