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勝手に句会告知

恒信風句会は「しもやけ句会」。〆切を過ぎましたが、まだ間に合うはず。
http://otd5.jbbs.livedoor.jp/520830/bbs_plain

メール句会オクンチの次回〆切は29日頃。お題はそろそろ出る頃か。
http://www3.ezbbs.net/03/0123/

他に面白い句会があれば、誘ってください♡ てんきが無理な場合、あめをが参加するかもしれないですし。

1/27 18:00追記
小麦句会は2月2日が〆切。http://8620.teacup.com/mugi0000/bbs
by tenki00 | 2006-01-26 12:35 | haiku

鮟鱇に再挑戦

浮御堂くにたち句会は、鮟鱇に再挑戦。
例によって日本海が時化ったら、yuki鍋に切り替えです。
by tenki00 | 2006-01-26 12:16 | haiku

世の中の動き

ぱらぱらと、とりとめなく。

もはや旧聞だが、ライブドア騒ぎは、この2つだけ読んでおけばいいということで。
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200601190000/
100センチの身長の子供が五年間で身長5メートルになるような変化を急成長とはいわない。よくても病気、もっといえばすでに死んだものの亡霊である。
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200601240000/
「法」は、人を裁くが、人は、ほんとうは「法」に裁かれるのではない。放っておけば人間は「法」を犯すということを知らないということに応報されるのである。

ああ、びっくりした!
何に驚いたのかというと、たじまさんのブログのデザイン。新しくなっている!
http://moon.ap.teacup.com/tajima/
祝!改装。

雨の日も走れる自転車。
http://www.wired.com/news/technology/gallery/1,70026,1.html
お値段は50万円ほど。ふつうの自転車で傘させばよいのでは?

ルックスが凄い。中国最先端のロボット。
http://j.people.com.cn/2006/01/23/jp20060123_56965.html

寒い日が続きますね。皆様、ご自愛を。
by tenki00 | 2006-01-26 00:30 | pastime

相同

信治さんが田中裕明の句をとりあげていらっしゃる

  濯ぎものたまりて山に毛蟲満つ   田中裕明

「時間」がテーマである、信治さんは書く。
「場所」が二つあって、両方で「時間」が進行している。この二つの「時間」の関係が、分かりにくい。というか、書いてない(笑)。

私などは、頭が単純だから、書いてなければ「同時」。基本的に俳句は「同時」ということで読む。というか、同時である以上時間は「ない」とも解する。いわゆるdefault。俳句を読むよときの、あるいは言葉を解するときのプロトコルとして、疑いもなく…。時間をdefault化する私の頭のなかでは、この句は明瞭でシンプルな美しさに満ちている。

信治さんの記事にはもうひとつ、句が掲げられている。

  指先の赤くて地虫出でにけり   田中裕明

この句も「濯ぎもの~」と同様、私には明快で、至極面白い。句の主成分としては「相同(homology)。信治さんが別の記事で「似たもの探し」と呼んでいらっしゃったものだと思う。

   濯ぎものたまりて山に毛蟲満つ
(換)濯ぎもの満つ・山に毛蟲たまる

相同とは、形状においてだけ言うのではない。濯ぎものと毛蟲は互換可能、句のなかで同じ変数となる。構造@レヴィ=ストロースが同じということ。ま、そんなもの持ち出す必要もないんだけど。

   指先の赤くて地虫出でにけり
(換)地虫赤くて指先の出でにけり
      ※地虫が赤いなんて言ってるのではない。為念。構造内の変数互換。
  
以上のようにパラフレーズするのは、もちろん説明のための遊びに過ぎない。「相同」に関連する心の作用によって、2つのものが、悦ばしく接合する。この一文に説明を加えると、次のようになる。

 句の以前にはべつべつだった2つのものが、句によって悦ばしく接合する。

ここにこそ、俳句の入り込む隙がある。これは俳句特有の作用であり、俳句的悦楽のひとつである。

信治さんの挙げられた「時間」というテーマは、私にはよくわからなかったので、話題が逸れてしまった。けど、まあ、こういう展開もいいんだよね?(って、誰に訊いてる?)

それにしても、この田中裕明という人の句、おもしろいですねえ。衝動的に注文しちゃった。

追記:
信治さんが依拠された記事を、あとから読んだ。↓
http://blog.drecom.jp/sternskarte/archive/39
ここでは「濯ぎもの」の句は、同一時間軸上の空間的二点という捉え方だ。とりあえず、上記の私の記事は、この記事とはクロスせず、別の話題だが、このブログには田中裕明の句がたくさん取り上げられている。興味のある方はご一読を。
by tenki00 | 2006-01-25 17:57 | haiku

文房具

筆記用具は、シノギをやるにも、俳句を遊ぶにも、それからその他もろもろのことをするにも、なくてはならない道具である。

去年の暮れだったか、銀座伊東屋の前のワゴンで2色サインペンの新発売キャンペーンをやっていた。2色(多色)ボールペンは多いが、2色サインペンは初めて見た。便利だろうと思って買った。ボディと芯が別売りでそれぞれ105円、1本にすると315円とエラく高いのが気にかかるが、黒・赤と青・赤の2本を持っている。

この2色サインペンは実用本位で使っているから、デザインには目をつむるが、国産の文房具というのは、なぜこんなにデザインが貧相なのだろう? と考えてみると、きっと、購買層として想定されているのが子どもか会社員なのだろう。オトナにも文房具好きは多いが、彼らの目は輸入文具に向くのだと思う。私も文房具は好きで、ちょっと変わった文房具屋を見つけたら入るし、伊東屋で何時間でも過ごせる。欧州輸入文房具を売るサイトで何度か買い物もした。

それほどのこだわりはないつもりだが、ふだん使う消しゴムが「まとまるくん」だと、やはり嫌で、Lauferというメーカーのだと、ちょっと気分がいい。色鉛筆(シノギに使う)は、ステッドラーの六角のもの(水性色鉛筆)を最近見つけて、少し嬉しい。鉛筆削りは、ガリガリハンドルを回すのは、とんがりすぎるので使わず、ステッドラーのシャープナーを使う。てなことを言うと、こだわっているみたいだから、もうやめよう。万年筆、鉛筆、シャープペン等等、いちいち書くのはめんどうだし。

話のネタとしては、こんなのもある。
http://www.dice-k.com/0212/1142.html
宇宙でも書けるボールペン。さすがにシャープなデザインだが、私の好みは、もうすこし緩い感じ。チープな感じ。

文房具、ことに筆記具は、気に入ってよく使うものほど、よく紛失する。世の常か。ペン立てには、使わないペンばかりが溜まってくるのだ。d0022722_1411458.jpg
by tenki00 | 2006-01-25 12:30 | pastime

リアル・タナカヒロシ

夜、くにたちへと帰るクルマのなかで、yuki氏が「憲武さん、ステキ」を連発した。

昨年、「タナカヒロシのすべて」という映画を観て、大いに楽しんだyuki氏は、それ以来、俳人・憲武さんに興味津々だった。知らない人のためにいうと、あの映画の主人公のモデルが憲武さんなのだ。

「鳥肌実みたいな感じなの? 顔とか」とyuki氏。
「いや、似てない」と私。
「ふうん。どんなんだろう」

そのyuki氏がひょんなことから憲武さん@リアルタナカヒロシにお目もじが叶った。クルマで都心からの帰り、目白に私がいるとわかり、豆の木句会の二次会に乱入したのだ。その夜、yuki氏は、何匹かの俳句獣やらナマ峠谷さんやら美しい女流俳人やら、拝顔の機会を得たわけだが、視野の何割かを憲武さんが占めたようだ。

映画を見逃した方も観た方も、DVDが、メイキング等附録もアリで、愉しいそうです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000BKJJ74/249-3506055-3701136
by tenki00 | 2006-01-23 19:31 | haiku

スナックの名前

先般、たじまさんの「俳句な毎日」で「スナック」というお題が出た。こういう変てこなお題には必ず取り組む。結果はどうであれ。

スナックは、やはりスナック菓子ではなく、あのスナックで句にしたい。場末のスナック。とはいっても、スナック通いの経験はない。経験もシンパシーもないが、句にしたい。スナックを句にするにあたっては店名を入れたい。…と考えていると、句が出てきた。

   松過ぎしスナックぽえ夢の土鍋  ユキコ

「ぽえ夢」は写生だろうと思った。頭の中からはなかなか出てこない微妙さだ。この店名はいい線を行っていると思った。

ちょっとリサーチ(お手軽goole)してみると、おもしろいページが見つかった。
http://portal.nifty.com/special04/11/15/
記事の末尾の「次へ」の文字で、続きが読める。スナック「あけみ」をめぐる旅。一種、考現学@今和次郎みたいな記事にもなっている。

スナックの名前はよく話題にのぼる。近隣で気になる店名もある。だが、句にする店名はいっこうに思いつかなかった。写生でも脳内噴出でもどっちでもいいから、いつかステキな店名を盛り込んだスナック句を作ってみたい。
by tenki00 | 2006-01-23 01:25 | haiku

雪の百句会

雪のなか百句会へ。南武線経由だったので、電車からは雪の多摩川が見えた。壮観。

句を作り選句して、牡蠣飯と粕汁を食す。

この夏、百句会は第100回を迎える。冊子が100号に達するということで、冊子のなかった草創期(私はこの遙か後からの参加だが)から数えると、それ以上だ。

祐天寺大将、ごくろうさんです!
by tenki00 | 2006-01-22 01:56 | haiku

懐旧病

「ノスタルジアは病気なんだよー」と、雪我狂流さんは叫んだ。某句会。

まさしく。懐旧病である。病である。

懐かしい情景の広がる句が、まあ、そこまで行かなくても「ああ、こうだったよなあ」と思ってしまう句が、いま、出てくる。これって、どうなの? 俳句は「いま」のことを詠むべきなのでは? などと少し思ってしまうが、自分でそういう句を作らないかと問われれば、作ってしまうことがある。

いまはもうない風景にはシンパシーを感じるし、そうした句を作ってしまう、そのときは、「いま」ではなく、いまはもうない「過去」の風景のなかにいる。

歴史(history)は物語(story)であるといわれるように、記憶も、また物語の感触をもつ。記憶はまた、一見、個々パーソナルな具体が成分のように見えても、その記憶とは、実は「共有された物語」をたどることであったりする。仔細は個人的にヴァージョン化するものの、祖型は同じひとつの物語(あるいは物語群)であったりする。

甍の波のむこうに雲がぽっかり浮かんでいたり。看板のならぶ猥雑な繁華街の路地jに靴音が響いたり。

「模造記憶」「共同記憶」と内田樹は呼んでいる。これ、一般的? ま、それはおいておいて、以下は上記リンクからの引用。

小津の映画に出てくる終戦直後の美しい湘南海岸や銀座の「若松」や北鎌倉の竹林なんか、ぼくは見たことがない。にもかかわらず、ぼくはそこにはげしい「懐かしさ」を感じます。でも、それがぼく自身の中に根拠をもつ懐旧の情であるはずがない。おそらくは小津安二郎自身がそのような風景に注いだまなざしの暖かさにぼくが同調していることのこれは効果だと思うんです。

今日が選句期限の人名句会にこんな句もあった。

   東京の沖に雲ある小津忌かな  篠

「過去」という(構造的・共同的)物語を読むことも、「いま」のことだと思えば、ノルタルジアは病であると自覚したうえで、いまはもうあるはずのない風景のなかで、いま句にとして言葉を結ぶものがあってもいいのかもしれない。
by tenki00 | 2006-01-20 19:35 | haiku

五七五

菊地京子さんの句集『華』の出版祝賀会(一昨年暮れ)の際、檀上に、麦の会の哲也さんが立ち、1句を取り上げた。

  望郷というシナリオをゆく百足  菊地京子

哲也さんが言う。「これは五七五にはなっていないんですね」。私は「えっ?」と訝った。「それ、五七五でしょ?」。

私は「ぼうきょうと いうしなりおを ゆくむかで」と読み、哲也さんは「ぼうきょうという しなりおをゆく むかで」と読む。哲也さんは、この句のリズムの面白さを言い、そのリズムが表す百足の動きを、全身を使って見せてくれた。あっぱれ! ジェスチャー付きの句の読みは初めて見た。哲也さんに多謝。

掲句を、五七五じゃないとするか、五七五とするか。それにはあまり意味はない。それが言いたいわけではない。ただ、五七五と言っても、人によってその範囲は若干違うということだ(このことは、1年少し前か、今はもうなくなった雄鬼さんのBBS雄鬼さんの今はもうなくなったBBSでも語られていたように憶えている)。簡単に言えば、語や語の塊が上中下の境を跨って17音を構成する、それを「五七五」と見る(聞く)人と、「五七五とは少し違う」という人、2通りの捉え方があるようだ。

実際に、語の構成が五七五ですっきり解決する句(古池や蛙飛び込む水の音)と、語の(意味的)構成とは別に五七五に収まった句の両方があるが、私は、五七五を広義に捉えるので、百足の掲句は、純然たる五七五だと解する。

また私は、ぴったり(もしくは、おおむね)17音で構成される句を「定型」と捉えるから、五七五だけではく、七五五、五五七も、「五七五の定型」という受け止め方だ。組み合わせが五七五と違うだけで、奇数を要素とする17音という定型には違いない、という捉え方。

そこで、最近、読んだ『海鳴り星』(今井杏太郎)をめくる。

  遠いところに星のある寒さかな   杏太郎(以下同)  ⇒七五五
  蕎麦咲いてゆふかぜの美しき村  ⇒五五七

以上は、私にとって「五七五の定型」の範囲内。ところが、次のような句もある。

  少年は老いて北風に吹かるる   ⇒五八四(五五七にも響く)
  枯山に小さな老人のゐたる     ⇒五九三

この2つは、五から始まり、気ままにシンコペートした感じだ。

ところで、私自身、他人様の句を読むときは、五七五だろうが、九六三だろうか、えらく短かろうが、長かろうが、一切、なんでもアリで拝読する。韻律さえ良ければ、好きになる。だが、いつの頃からか、自分で作る場合は、「俳句=五七五遊び」と捉えてきた。大幅な破調を作っていた時期もあるが、この数年は意識的に避けてきた。いつか破調の句を作り始めるかもしれないが、今のところは「五七五の定型」が面白い。そこに五八四、五九三など、五七五の「変奏」までもが加わるとなると、またまた試してみることが多くなった感じで、とうぶん破調にまで手が廻りそうにない。

さらには、17音にちょこっと音を足した定型、つまり、七七五やら六七五(この上の字余りは昔ずいぶん流行ったようだ)、五七六なども加わるから、これはもう、やりたい放題という嬉しい状態。形式は、こんなに面白そうな自由を確保してくれている。ところが、哀しいことに、そのなかで遊ぶこちら(自分)には、その自由を遊びきるだけの言葉の豊かさがない。これが実に困ったことなのだ。
by tenki00 | 2006-01-19 20:03 | haiku