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不要のもの

あってもなくても、どうでもいいものは、たくさんある。なにかの「為」になっているわけではないもの。不要のもの。

俳句も、そのひとつ。

なくてもいいけれど、現にあるんだから、それはそれでいいのだ。

ところが、こうした「あってもなくてもいいもの」が、なにかの「為」になろうとしたりすることがある。「為」になると認められれば、「なくてはならないもの」に昇格できるとでも思うのかもしれない。

トンチンカンな野心というか使命感というか。

例えば、橋本直「日本の原風景の痕跡あるいは銃後の日常の記録」(週刊俳句第64号)が紹介する『勤労俳句の鑑賞』(1946年)という本。

俳句研究編集部のまえがきに、こうある。

人間としての最低の生活さえ保証されないような貧乏世帯が日本の現状であるが、何とかして人並みの生活ができるように、この日本を立て直す責任がわれわれの双肩にある。それには勤勉努力の外には方法がないであろう。われわれがもし自由主義をはきちがえて、のらくらと勝手気儘なことをしていたら、八千万同胞はたちまち飢餓に襲われるであろう。(略)本書は、俳句を通して勤労、勤勉の精神を身につけるべく、働くよろこび、働くたのしさをうたった作品を集め、これに現代大家の鑑賞的批判を乞うたものである。俳句の勉強をしながら、自然に勤労努力の精神をふるい立たせようというのが本書の狙いである。

なんだか、すごい。

  

なんの役にも立たないものが、役に立とうとするのは、例えば、こんな感じ。

しっかりした人たち(=なくてはならないもの)が立ち働いているところに、役立たず(=あってもなくてもいいもの)が、「なにかお役に立てることはないでしょうか?」と横から伺いを立てている。そんな感じ。

もし私が「なくてはならないもの」だとしたら、「あ、いやそのへんで好きにしていてくれればいいです(こっちに来られると邪魔だから)」と答える。

  

あってもなくてもどうでもいいものが、なにかの「為」になろうとすると、ぶさまなことになりやすい。また、そんな必要もない。俳句は、なにかの「為」ではなく、俳句の「為」でいるのがいい。

俳句のための俳句。

俳句が供する、その先にあるものは、俳句。

それが「どうでもいいもの」としての慎みであり誇りであると思うのだ。



なお、橋本直さんの記事は、当時の編集代表・伊東月草をめぐる動きも押さえて、たいへん興味深い内容。ぜひご一読を。
by tenki00 | 2008-07-15 20:00 | haiku
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