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呉羽化学

句に固有名詞を盛り込むことを嫌う、あるいは窘める傾向は強い。嫌われ窘められると、やってみたくなる。これ、当然。

固有名詞にもいろいろある。人名、地名、それから企業名。

  カンナ愛づ呉羽化学に咲くを愛づ  てんき

地名は、動かなければいけないそうだ。信治さんによれば、ね。企業名は、どうなのだろう。呉羽化学は限りなく動きそうだ。六音企業すべてOK(字余り・字足らずを許すなら、すべての企業名がOK)。さらにはカンナ(季語)も限りなく動く。

すると、「愛づ」しか残らない。

けれども、「愛づ」しか残らないことが、作者の私にとっては、このうえなく上等、ということも言えたりするのだ。

で、さらには、「愛づ」も何かを言っているわけではない。句のなかの「愛する」とか「見る」といった語は、あらかじめ句に含まれている作用なのだから(句にしてるんだから、そりゃあもう、見ているんだし、愛しているのだ)、この「愛づ」も消えてなくなる。

すると、何も残らない。

ところが、だ。何も残らず、ぜんぶ消えてなくなった、この状態、作者である私にとっては、それこそが本懐だったりする。

ひとつには、表現の必然によって構成された、いわゆるよくできた句、読む人を唸らせる句は、どこかにいるはずの俳句の上手な人が詠めばいいのだから。

それと、もうひとつ。「何か」を句にするとき、「なぜそんな句(措辞・表現)になるのか」に必然を見出せない、なんていう事態は、ちょっとオツだったりもする。「何か」と作者(である私)をつなぐもの、それを世界は「愛」と呼ぶんだが(古い)、その愛について、説明ができるというのはつまらない。愛する理由についてまったく説明ができない、という状態こそが、私の望み、だったりする。

「なぜ、そんなものを見たのか?」
「たまたま」
「なぜ、そんなものが好きになったのか?」
「たまたま」

ここで、先に挙げた信治さんの記事に戻った感じ? アプローチは違うけど。
(…)まず人間は「偶然」ではなく「偶然」の模型をつくることで、満足しなければならないのかもしれない。

翻れば、舫(もやい)を解くということ。語と語の舫。現実と言葉の舫。それは、表現の必然性という一般には称揚される「舫」を解くということにもなる。

うまく言えている句、って、ちょっと窮屈ですよね。それと、ちょっとダサい。

そんな感じ。

って、固有名詞の話から、ずいぶんと逸れてしまったざんす。
by tenki00 | 2007-03-24 21:39 | haiku
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