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俳句とメディア

『俳句界』07年3月号の特集「俳句、インターネット時代の功罪」を読んだ。「また、功罪かよ!」と言ってはいけない。ここはインターネットなんだし、俳人さんたちが、インターネットについて何を考えているかには多少の関心がある。

まず私自身の立場表明、なんて不要かもしれないが、ともかく、しておくと、「インターネットは便利」というくらいのスタンス。利便性着目・ツール限定志向といってもいい。つまり、インターネット上で俳句を遊んではいるが、ツールに過ぎないという考え。すこし付け加えるなら、「うまく使えば便利。うまく使うのは意外にむずかしい」という把握だ。

さて、特集はアンケート結果記事掲載のあと、14氏の14の論考が掲載されている。その最初の記事が五十嵐秀彦「開かれた書物、堕胎された言語」(*1)。俳句とインターネットを論じるなら、そりゃメディア論でしょ、という前提から入るこの記事、興味深い部分が多かった。
※以下、引用以外は私の記述になっている。原典を忠実に再現しているのではないので、そのへんよろしく。

新しいメディアを論じるとき、それは同時に旧メディア(活字メディア)照射することにもなる指摘は妥当なものだ。そうだとすれば、例えば「インターネットの功罪」といったテーマを俳誌がとりあげるとき、既成のメディア、すなわち俳誌の「功罪」もまた照らし出されることになる。ここのところは、なかなか趣向のある、かつ戦略的な仕掛け。

さて当該論考の内容。まずは、俳句と活字メディアの関係が、次のように位置付けられる。

皮肉な言い方をすれば、俳人は自分たちの自己顕示欲を正当化してくれるメディアとして活字媒体を自分たちに都合のよい「権威」としてきた。(五十嵐秀彦「開かれた書物、堕胎された言語」・以下青字は同)

いわゆる「(自分の書いたものが)活字になる」というセリフにこめられた、一種の矜持・誇らしさは、この一世紀ほどのあいだ、変わらずに存在した。新聞投稿欄、刊行物への寄稿、さらには著作。いずれも活字に権威になんらか依拠しての営為である。そして俳句の場合、権威付けは、さらにシステム的なものとなる。

明治以降の出版文化発展のめざましさと、高濱虚子が結社組織の中心に結社誌主宰選を据えて以来、俳誌というメディアに活字化されることが多くの俳人の目標と化した。その中で座がどうかすると出版媒体に従属するかのような存在に変わり、それが俳句の近代化、いいかえれば文学化でもあったと言えるかもしれない。

上の引用のうち、前半はすでに一般化した把握でもあるが、きちんと押さえておくことは大事。さらに後半部分、「座」への言及はきわめて示唆的。なるほど「座」の、出版媒体への従属。このあたりは、また別の機会にゆっくり考えてみたい。

話を戻す。では、一方のインターネットというメディアにおける俳句とはなんだろう。ここで寺山修司「落書学」が援用される。落書の受け皿としての「簡便・自由なメディア」、かつての都会の公衆便所や横丁の壁が、いまインターネットであると、五十嵐(著者敬称略・以下同)はいう。

(…トイレットの空間が)ネットという空間に置き換えられていること、そして、そこが「開かれた書物」であり、「話させてくれ、もっと。書かせてくれ、もっと」という欲望にあふれていることに私は気付かざるをえない。ネットというメディアに対して持つ、ある種のいかがわしさの原因がここにあるのではないか。

「権威」を拠り所にする活字メディアとの対照において、インターネットの俳句は「非・権威」と位置付けられるが、それがどんな価値を持つかについては保留とされている。「天使の武器か、悪魔の武器か」についての回答は示されないが、ここに不満は生じない。結論づけるにはまだ早すぎるし、また、ネット全般について、こうと判断するなどできまい。天使・悪魔のいずれにせよ、ある種の「可能性」を孕んでいるはずというのだ。その可能性は、既存メディアになにがしかの揺さぶりをかける。五十嵐は書く。

仲間ボメや、主宰礼讃や、組織防衛的発想に埋もれていては、俳句という文芸も早晩ただの家元制の習い事と変わらぬものとなってしまうに違いない。

この一文は、既成メディアを指すようにも読めるが、五十嵐の意図もそうだとしたら、私は、この部分に異議がある。インターネットにおいても、このことがそっくりそのまま当てはまるからだ。

俳句という遊びは、インターネットと親和性が高い(*2)。現実と非常に近い模造(さらにいえば、ネット上の現実)を構築しやすい。だからこそ、ネット上にも「座」が醸成するという見方がよくされる(私もそう思う)。同時に、ネット上もまた、既成の俳句世間とまったく同様に、「仲間ボメや、主宰礼讃や、組織防衛的発想」に埋もれるケースは少なくない。ネットにおける俳句ということにおいて、現実の俳句世間と「別の」世間が生起するよりむしろ、「そっくりの」世間が展開されているように思えるのだ。

ともあれ、ネットという新メディアを、活字メディアとの対照で捉えてのトピック抽出や問題提示とう点で示唆深い記事だと思った。

ただ、疑問・不満も挙げておくのが、誠実な態度だろう。ひとつはタイトル中、ネット上の俳句的言説を指した「堕胎された言語」という部分。寺山修司を多く引用することで、この語が説明されているが、紙数の制限からか、やや説明不足で情緒的な提示に終わっているように感じた。「堕胎」というイメージ喚起力のある語は、扱いに注意が必要だと思う。戸籍(旧メディア)上で認知される(活字化)こともない言説に、まだ何やらわからぬ「力」が潜んでいるという見方には首肯できるが、落書→堕胎という寺山修司の隠喩展開を用いずとも、多くのことが言えたのではないかなどとも思ってしまう。

もうひとつ。導入近くの匿名性に関する二分法(現実の俳人がネットで書き込む場合と匿名性が貫かれる場合)に関する問題は、じつは重要と思うが(当記事の落書論との絡みにおいて)、ややあっさりと片づけられている。

いずれにしても、もうすこし文字数があったほうが、よかったの鴨。

ただし、繰り返しになるが、とても興味深い記述に満ちた論考であることは間違いない。興味のある方は、本屋へ走れ!


(この記事つづく、かも)

(*1)じつは、この『俳句界』でこんな特集があるのは、秀彦さんのブログを読んで知ったのだった。
(*2)俳句とインターネットの親和性の理由は、俳句がことばという電子データ化しやすい材料から成るという基本的な事柄だけではない。インターネット(さらにはパソコンの)弱点は一覧性の悪さ。俳句は短いので、その弱点が気にならない。小説をモニター画面で読む場合と比べてみれば、よくわかる。

07-3-28追記
「開かれた書物、堕胎された言語」は以下のサイトで読める(その後、秀彦さん自身がサイト掲載されたもの)
http://homepage2.nifty.com/jinrai/page183.html
by tenki00 | 2007-03-14 21:19 | haiku
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