だが、表面とはなにか。それは存在のあらゆるカテゴリーをのがれるなにものかではないだろうか。表面は存在論の文脈から脱けおちる。それは、表面が、ほとんど定義によって、存在論の対象となりえないからだ。表面は厚みをもたず、どんな背後にも送りとどけず(なぜならその背後もまた表面)、あらゆる深さをはぐらかす--そのとき、ひとは軽蔑をこめて表面的と形容するだろう。宮川淳「ジル・ドゥルーズの余白に」(『紙片と眼差とのあいだに』小沢書店1974所収)
ねえ。そろそろ、心とか気持ちとか、モノの本質とか、そういうこと、やめにしませんか? うっとうしいので。
そのとき、ひとは軽蔑をこめて「表面的俳句」と形容するだろう。
そんな句がよろしいです。もちろん実現は、なかなかに困難ですが。
過去記事
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