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アフター両吟歌仙 第二夜

四童さんと巻いた両吟歌仙についてのチャット(google chat)。第一夜に続いて今回は第二夜(07年1月13日)。

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tenki:: そろそろですか。
yondo:: はい。行きましょう。
tenki::「春浅きページ余白に題ありて・童」。リリカルな句ですね。この流れの中で効果的と思いました。野暮にリアルの話をしますと、一瞬で、ゲラのページが見えました。完成品としての本のページではなく。職業病ですが。ちょっとおもしろいのは、タイトルをまず置いて、その前後に余白を作る。でも、この句は逆。余白にタイトルがある。
yondo:: 私がイメージしていたのは、少年マガジンでした。漫画の盛り上がりに全然関係なく、ゴシックの活字で「巨人の星」とか「ほらふきドンドン」とか無愛想に書いてあるのは、こども心にかなり不思議でした。ゲラのリアルさに通じるかも知れません。
tenki:: 漫画から離れないのですね。
yondo:: はい。そういう付き具合だったのでした。ははは。
tenki:: ま、それはいいとして。「漫画の盛り上がりに全然関係なく、ゴシックの活字で「巨人の星」とか「ほらふきドンドン」とか無愛想に書いてある」というの、どういうことでしょう? 私も少年マガジン、サンデーは読みましたが、事情がわからない。
yondo:: ページの上の真ん中に漫画の題が印刷してあるのです。
tenki:: え? そんなことあるんですか?(妙にこだわるが、腑に落としたい)
yondo:: ジャンプなんかだと、海賊みたいのが描いてあったりするじゃないですか。少年マガジンは上のページ余白の真ん中に題が書いてあります。今でもそうだと思います。
tenki:: あ、コマ割の外。ハシラというやつですね。たしかに、あれは盛り上がりとは関係がない。淡々と繰り返される。子どもって、ヘンなものを不思議がりますね。
yondo:: ああ、ハシラというのですね。すみません、言葉を知らないもんで。さて、「朧月夜の狗肉を捌く・気」。猟奇的ともいえる転じ方でしたね。
tenki:: 業界用語でこちらこそ失礼。ああ、猟奇的とも言えますね。そういえば。上のベタな設定がそうさせるのでしょうか。付けたときは自分で気に入っていたのですが、時間が経つと、ちょっと硬くて余裕がない。連句は、そのときやや緩いめのほうが、後から落ち着きます。私だけの事情かもしれませんが。
yondo:: 余裕がないのとはちょっと違うような…。ざっくりと切り込んできてよかったです。ちょっと食糧に戻ってしまった感もありましたが、打越ではないし…。後から落ち着くかどうかは、あまり考えたことがありませんでした。次の句を付けたときに、前の句と最終的に定着するということなのかしら。
tenki:: あっ、わずか2句去りですね、これはまずかった。そのへんで居心地が悪かったのかも。
次の長句「黄砂のみならず大陸降り来る・童」。大陸は羊頭狗肉の故事から。視覚的にも朧月夜から黄砂。大陸ごと降ってくるような黄砂というのはおもしろいですね。このへんの理屈のような理屈がふっ飛んでバカバカしいような味は、四童さん独特ですね。
yondo:: ども。こういうバカバカしさを受け入れてくれるとうれしいです。それを受け止めようとして傘が壊れてしまったのですね。「傘一本を貼つて十円・気」。
tenki:: 仰々しくバカバカしい句を別のバカバカしさで受けるのは、好きなんです、歌仙のなかで。さっきの余裕とか硬軟でいえば、こちらのとぼけた付句のほうが自分で落ち着きます。もちろん他者評価は知ったことではなく。
次の「花野にて骨折れるかと訊く陛下・童」は、浪人や十円玉のしみったれた感じからの展開として、かなり好きでしたよ。対照でもなく、引きずるでもなく。
yondo:: 柔道の山下が出席した園遊会で昭和天皇が「骨は折れますか」と言ったジョークを思い出しまして…。「あきつあかねの亜種かもしれぬ・気」、血縁の転じ方として、これはすごく面白かったです。
tenki:: 「あきつ」というヤマトものは、連句と相性がいいような気がしています。連句は、俳句が失った尻尾をもっているということかもしれません。表層的な見方ですが。
ところで、すこし戻りますが、「この展開はなんともいえず好き」というとき、その「好き」を説明しようがないことが多い。俳句にける取り合わせにしてもそうだといいう人がいるかもしれませんが、それとはちょっと違う。
流れを感じるときの気持ちよさ。これを「なんとも言えない」と言ってしまうと、秘儀めくのですが、連句を何回か遊んでいると、そういう秘儀めいたことをたしかに感じるのですよ。そのへん、どうですか?
yondo:: これは他者との交感の快感だと思っています。自分ひとりでは解決できない気持ちよさがぜったい連句にはあります。
俳句の取り合わせは、それをひとりでやっているので、ちょっとさびしい。「俳句が失った(猿の)尻尾」というフレーズをみたとき、俳句ってひとりで頑張りすぎていて、季語とか定型以外にも、ひとが共有できる要素はもっとあるのではないか、と、ふと思いました。具体的になんだと問いつめられるとちょっと困るのですが。
tenki:: 「俳句は、ひとりで頑張りすぎている」…含蓄ですねえ。これを聞けただけで、歌仙を巻いて、このチャットをやった甲斐がありました。季語と定型は、ツールに過ぎない。というか「服」みたいなもの。服を着ている同士だから、言葉は通じるだろうという程度。俳句的・俳諧的なもの(俳句性)は、季語・定型とは別のところにある。そのヒントが、連句、そして四童さん言うところの「他者との交感」のあたりにありそうです。
yondo:: 近代芸術というのは、基本的に作者と享受者が独立していて、作者というのはたいていひとりなのでしたよね。「(猿の)尻尾」というのが、近代的とか前近代的というのより、もっと根源的な言い方で、ヒントがあるような気がします。ぼくら、連句を通して、より動物的なコミュニケーションを求めているのかも知れません。
tenki:: 作者であることと読者であること、詠むことと読むことが同時に生起するのが俳句という信じられ方をしていますが、ちょっと疑わしいかもしれない。悦ばしく両者であるというよりも、規定されたもの、いわば互酬性によって規定された作者・読者兼任(読んでもらうから読むという句会の形式)。連句では、作る・読むが悦ばしいかたちで協働できて、「個」の溶解のようなものをもたらす瞬間がある。もちろん楽観的な捉え方ですが。
yondo:: 両性具有のミミズなどは、雄としての生殖期と雌としての生殖期がずれて、一体では繁殖できないそうなのですが、俳人というのは詠み、かつ読んでいるにもかかわらず、同時には満足できないミミズのような存在なのかも知れません。
tenki:: 「作者」という「個」の呪縛ですね。俳句が「文学的」な作者像から比較的自由という捉え方はかなり広範ですが(例の大衆性と文学性に関するシンポジウムでも小野さんが触れていた)、俳句は、小説や詩とは別の作者像、「カジュアルな」作者像を作り出してしまったように思います。このあたりは、話せばもっと展開しますが、歌仙談としてはこのくらいでいいでしょう(付け加えることがあれば、どうぞ)。
ここで半分ですね。どうしましょう? 次回に回しますか? 出来上がりを計算すれば、濃い話をそいたので、ここで切っておくのが適切でしょうか?
yondo:: うん、このへんがキリがよいようです。
tenki:: それでは、次回はメールで連絡をとって決めましょう。
yondo:: 了解。おやすみなさいませ。

(第三夜に続く)
by tenki00 | 2007-02-03 22:32 | kasen
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