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俳句と「文学」

「文学」の価値下落の一側面だなあ、と思ったのは、大学の先生とお話ししているときのことだ。このところ、「文学」という看板がどんどん描き変えられているという話。つまり、「文学」では子どもを集められないという事情。学部名はともかく、学科名においては、「文学」から「文化」や「コミュニケーション」といった語への言い換えが進んでいるという。例えば日本文学科から日本文化学科、英米文学科ではなく国際コミュニケーション学科。

「文学」の価値そのものがどう変化しているかは置くとして、社会的には、あるいは(もっと世俗的に)時流としては、「文学」という語の吸引力(魅力)は確実に減少傾向にあるのだろう。

このことを私などは楽観的に、「ことば」にまつわるいろいろが、「文学」という硬直化した器から染み出して(あるいは溢れ出して)、バラエティ豊かな局面へと広がった結果とも思うが、「文学」の伝統的信奉者には不安なことだ。この不安は、感情的情緒的な側面、アカデミックな側面、経営的な側面(先ほどの学科名変更が一例)でそれぞれ異なる展開を見せるが、「文学」がかつてのような位置にないことは自明のようだ。

さて俳句。俳句と文学の関係は、やや微妙だ。近代以降、「文学」という概念がどんどん定着し価値を増していた時期から、幸か不幸か、俳句は、文学のはじっこ、あるいは文学とは別のカテゴリーにあった。

いま、俳句は文学か?という(いささか乱暴な)問いに向かって、俳句愛好者の多くが、「もちろん疑いもなく文学」と答える一方で、多くは「文学と思ったことはない」と答える。前者は理念に傾き、後者は実感に傾いているだけで、考えていること、やっていることはそれほど変わらない感じもするが、それにしても、同じ「文芸の一ジャンル」について、態度表明がはっきりと分かれてしまうのは、俳句独自の事情かもしれない。

ところで、私自身は、俳句が「文学」であろうがなかろうが、どちらでもいいというスタンス。ここまで「文学」という話題で進めておきながら、無責任なことだが、私の興味は「俳句とはどんなものか?」であって、そこで「文学か否か」という属性はあまり重要な役割を果たさない。

「どちらでもいい」と言った意味は、「どなたさまもご随意に」ということだ。文学と思いたい人はそう思えばいいし、逆も同じ。ただ、どちらも句(生み出すテキスト)の保証にはならない。つまり、文学と信じる俳人の句に価値があり、そうでない人の句に価値がないということはない(逆も同じ)。

ただ、これは理屈(論理)ではなく、スタイルというか趣味の面から、俳句は「文学」であるという信心には含羞が欲しい。

攝津幸彦は、『恒信風』誌のインタビュー(*)の最後あたりで、「だって俳句は文学と信じたいじゃないですか」といったことを口にした。とても恥ずかしそうに。

この告白、この含羞が大事なのかな、と、なんとなく考えている。胸を張って「俳句は文学である」と大声で言明する、あるいは逆のこと(「文学ではない」)をはっきりと言明する、そのどちらも「俳句的」ではないと思うからだ。堂々の大声、それは粋じゃないし、オツじゃないし。

文学? んん? そうじゃない? どっちだろう? と、他人から見れば優柔不断に気弱に、そして恥ずかしそうに揺れ動くほうがむしろ俳句的と思うのだ。

(つづく、鴨)

(*)このインタビューは『攝津幸彦選集』(邑書林)に再録されている(割愛部分を復活させたロングヴァージョン)。句作の舞台裏というか、かなりぶっちゃけた話もあり、興味深い。これをもってしても、この本は買って損なし。
by tenki00 | 2006-11-26 23:52 | haiku
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