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「大衆性と文学性」シンポを聞いて(1) 外側の世界のことなど

あんまり遅くなると忘れてしまう。

「第19回現代俳句協会青年部シンポジウム-短詩型のゆくえ─俳句の大衆性と文学性の接点」を拝聴しての感想を書き始めることにしますね。どう書くかはあまり決めていない。気ままに行きます。

まず、前提的なことが必要かもしれない。「大衆性」とか「文学性」とか、そういうテーマの立て方は空疎であるとか、そうした概念が、いま、いかに通用しないか、など、私自身の把握を書いておくべきだろう。しかし、それは気が向いたら書くことにして(骨が折れるしネ)、シンポジウムのトピックを、断片的に、あまり脈絡を気にせずに書き連ねていくことにするざんす。

さて、前半は対談である。対談者のひとり、荻原裕幸さんから短歌の事情について興味深い紹介があった。その部分の要旨は以下のとおり(私自身の言い方になっている部分も多々。それをアタマに置いて読んでください)。

1980年代あたりから、文学的価値の揺らぎ、「文学性」の機能不全が顕著になった。言い換えれば、短歌(そして多くの言語表現)が従来の「文学」的スタイルのままでは、読者に届きにくくなった。
※(天気付記)従来とは、つまり、短歌という文学領域が、世間(「大衆」概念と関連)とはちょっと離れて位置しており(離れることで「文学性」を保っていた側面がある)、そこから発信した文学が世間に届いていたという「従来」。それが通用しなくなったということ。

さて、その頃、短歌の一部は、内側(歌壇)を向くのをやめ、外側を向くようになる。つまり、世間(「外部」にある一般的な感覚)への通路(回路)を開くということ。ちょっと創作の枠組みを変えてみたのだ。すると、外部のモノ(事象)が勢いよく、短歌領域(内側)へと流れ込んできた。

以上が荻原さんが短くかいつまんで語った内容(全部じゃないです。一箇所)。ここは、たいへん興味深いところだ。いまの(最近の?)短歌は、俳句など比較にならないくらいの幅を獲得しているように、私には思える。短歌の熱心な読者ではないが、それは強く感じてきた。その「幅」とは、つまり「なんでもアリ」加減が凄いということ。生み出される(たくさんの)歌を布石として並べてみたとき、それらが形作る領野の面積が広い。俳句よりもだんぜん広い。俳句は、いわゆる伝統派から前衛的な作風まで並べても、短歌と比べると、幅が狭い。いろいろな句があるようでいて、かなり狭い範囲に収まっている。

短歌が持ち得たこの「広さ」とは、つまり、そういうこと(「外部の流入」)も大きな要因にちがいない。荻原さんの話を聞いて、大いに得心した。

例えば、荻原裕幸さんのこれらの歌(シポジウム資料「「代表歌」より)。好みは別にして。

  間違へてみどりに塗つたしまうまが夏のすべてを支配してゐる
  あ、http://www.jitsuzonwo.nejimagete.koiga.kokoni.hishimeku.com
  歌、卵、ル、虹、凩、好きな字を拾ひ書きして世界が欠ける

また広さというだけではない。前衛さ加減(ざっくりでごめん)も、短歌は俳句の先を行っている気がしてしまう。その意味では、川柳もまた、意欲的に「先端」をめざすかに見える(樋口由紀子さん・MANO誌、なかはられいこさん・倉富洋子さんWE ARE誌等を参照)。いわゆる短詩ジャンルのなかで、俳句はなぜにこうまで作品群としての幅が狭く、また、「先を行く」感が薄いのか、つまり「後方」の位置にあるように見えるのか? これはこのシンポジウムを離れても、私にとって大きなテーマだ。

さて、短歌の話に戻ろう。「外部」への回路を、短歌はどのようにして開いたのか? ここに強い関心が湧く。「外側」に目を向けるとは、いったい? もう少し詳しく聞きたい。と、身を乗り出した。ところが、この対談では、そこから先が聞けない。これはどうしたことか? この先を聞きたかったのは私だけではなかったはずだ。ところが話が深化しない。広がりも見せない。

これは荻原さんのせいではない。対談といいながら、対話にならないのだ。原因は、対談相手の五島高資さんにある。例のインターネット俳句協会の件をここで取り上げてまもないので、あまり書きたくないのだが、ひどかった。

「中学生の寝言」にしか聞こえない(いや、大袈裟じゃないって)。断片としての知識や考え・思いはあるようだが、それを順序だてて人に聞かせる能力や意思がない。問われていることを把握する気がないのか理解力がないのか、応答になっていない。途中の論理の杜撰さも目立つ。しかも、しゃべりだすと長い。理路がないので、ご自分の「思い」の流れが話となり、長くなる。

五島さんはおそらく、大衆性と文学性うんぬんというテーマに、ほとんど興味がないのだろう。だが、それにしても想像を絶するものだった。ここでいま言ってもムダだが、荻原さんへの(どなたかによる)インタビューのほうが、よほどおもしろかったにちがいない。

ともあれ、短歌の80年代以降。外部とのダイナミックな流れ。それらについての興味だけが残ってしまったが、これは私個人で追いかければいいということか。前半の対談は、そんなわけで、「おもしろそうだったのに、おもしろいところまで行かない」という感じ。

だが、この時点でひとつ、見えたこともある。俳句における大衆性を語るにおいて虚子への言及は欠かせない。だが、いつまでそれをやっていてもしかたがないということ。虚子のあれこれが、俳句作者(俳人)枠を、「大衆」にまで広げたことはたしかだが、それはもうわかった。それはそれとして、読者としての「大衆」という問題は残る。だから、「大衆性といえば虚子ですね」という俳句的言説の定番的筋書きから、どう離れて、どう違うことを語るかのほうが重要だろう。

もうひとつ、これは後半の5人のパネリストの座談にも言えることだが、「大衆」という語ではなく「俳句の外部」といったことに関する語を立てたほうが、話がはっきりするように思えた(このことは機会があればまとめることにする)。そうなると、虚子に端を発する作者としての「大衆」の話は、いったん脇にどけて、「俳句世間」という蛸壺とその外部の世間との関係について考えることになろう。
※短歌(の一部)はその蛸壺状態から脱することには成功しているわけだ。

今回のテーマ立案者の意図がどこにあったのか定かではないが、「大衆性」などという、ヘタをするといろんなよけいなものがくっついてくる厄介な概念を避ければ、議論を拡散させず、論点をクリアにすることができたのではないか。このあたりはいまさら言っても詮無いが、テーマの立て方に大きな問題を感じた。以前にも言ったが、シンポジウム案内の、あんな前文では、まったくテーマを確定できない。「大衆性と文学性」という言葉から連想するものを話せ、と言っているようなものだ(事実、後半の座談では、各自、それぞれ思うところを順次しゃべる形式になってしまい、意見がクロスすることは少なかった)。

まあ、こんなところでシンポジウムの前半が終わった。繰り返すが、聞いていて、なんとも歯がゆく、また呆れもする前半だった。休憩に入って、すぐ、運営のたじまさんが近づいてきて、私は、愚痴を口に出すまえに「まあまあまあ」となだめられてしまった。対談を聞いていて、私の不満を嗅ぎ取ったのか。いい勘している。それとも、私の顔に不満の色がありありと浮かんでいたのか。きっとかなり怒ってたんだろうね。「まあまあまあ。抑えて抑えて」ならまだしも、私に向かって「どうどうどう」とおっしゃる声も聞こえた気がする。馬じゃないって。

どっちでもいいが、シンポジウムはまだ続いた。記事の続きは、この次だ。

(つづく)


追記:短歌のへの興味を書いたが、私が短歌を好んでいるかというと、そうではない。たいした理由ではないが、私には、短歌は長すぎるし、おしゃべりすぎる。私の関心は、短歌というジャンルが獲得した「自由さ」のようなものを、俳句はどのように獲得できるのか、にある。あくまで「俳句好き」の体質のようだ。
by tenki00 | 2006-10-11 20:02 | haiku
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