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八百屋のおじさんは大衆か?

昨日の句会後の雑談で、祐天寺大将がこんなこと言ってました。

「八百屋のおじさんは大衆かあ?」

これは、参加者のおひとりが、第19回現代俳句協会青年部シンポジウム(ちょっと前、ここでも記事にしました)に出かける予定とかというお話をされた、その流れで出た話なんですが、答えは、こうです。

「大根を見ているとき、八百屋のおじさんは大衆じゃねえぞ。そりゃあ、ぜんぜん違う」

ここで言う「八百屋のおじさん」とか「たばこ屋のおばさん」はよく使われる譬え。いわゆる「インテリ」(死語~!)じゃない人の譬え。他意はない。んで、そこには「大衆」みたいなことも含まれる。

なるほどー。感心しちゃいましたよ。

知(savoir:トニー谷主義的に、おフランス語使っちゃいますよ、この際)を、中世的に、固定的にだけ考えていては、とんでもないお笑いぐさに終わってしまう。祐天寺大将は「知」なんて、涎みたいな語は使いませんでしたが、こうだと思うんです。八百屋さんには八百屋さんの「知」がある。知とか大衆性を、人や社会集団と一元的にリンクさせて考えていては、そうとうトンチンカンなことになる。

私、この大将の言葉を聞いて、ミッシェル・セールの本のなかのエピソードを思い出しましたよ。うろ覚えなのが悲しいですが、船頭の話でした。船頭が、川面の下の水の流れを読み取るって話でした。これもまた、祐天寺大将の言う「大衆じゃねえぞ。そりゃあ」なわけです。

こういうことって、ちょっと現代思想(きゃ!恥ずかしい)を囓った人なら、すぐにレヴィ=ストロース「野生の思考」を思い出すはずです。なんでもかんでもいっしょくたにするのはなんですが、「知」を一元的に考えることの愚は、もう半世紀近く前に指摘され了解されています。

いまだに「知」を一元的に捉え、それを前提に(なおなつそうした前提の危うさの検証もなしに)「大衆」みたいなものを語るとしたら、それこそ臍が茶を沸かす(古い~!)式の大笑いになってしまう。

で、例のイベント、第19回現代俳句協会青年部シンポジウム。なーんか、嫌な予感がするざんす。しません? 告知書面の前文、なんも考えずにただ筆を滑らせただけにしか思えない一文を読んでると。


ま、それは10月7日に出かけてみればわかることだから、いいとして、ここで、一般的なこと。

ものごとを考えれば考えるほど、言いよどんでしまう、ということがよくあります。単純化して、すぱっと言い切ることなんて、とてもできないことに気づくから。

それが例えば「大衆性」という概念だと思うんです。

疑いもなく声高に言明してしまうことで、ろくすっぽ考えていないことを証明してしまうことがあります(これは上と同じことを言っているのですが)。

それが例えば「大衆性」という語だと思うんです。

よく考えているから、はっきりとモノが言えるということも、もちろん多々ありますが、逆もあります。まともに考えていれば、よーく考えようとしているなら、言いよどむしかない、保留にするしかない。そんなことも多々、なわけです。

雄弁の土台には、理解と無知の2通りがある。沈黙・逡巡にも同様。思慮と無知がある。そう思いますよ、つくづく。

あるものごとについては、思慮深く言いよどむことができる。それがオトナっつうことなんですけどね。


なぜか、今回、ですます調。

付記すれば、句会後の雑談のなかに、いろいろタメになることがあるんですよ、私の場合。言い換えれば、そんな句会ほど楽しい。そういうことざんす。
by tenki00 | 2006-09-25 20:45 | haiku
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