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現代俳句≠現代+俳句

ユースケさんの記事。
http://blog.livedoor.jp/yusuke0524/archives/50405298.html

「現代俳句」という語に、「現代の俳句」ということ以外のさまざまなニュアンスが含意として含まれているという。それはそのとおりだろう。だが、それがどんな含意かは書かれていない。まだ把握できていないということか。それなら、そのことを記すべきだろう。そうでないと、「結論からいえば」といいながら、結論の一部しか、あるいはまったく言っていないことになる。「含意が含まれている」というだけでは「結論」にならない。「指摘」「着目」にとどまる。
(だいたいにして、文芸ジャンルを示す語に含意がないほうがおかしい。だから、「含意がある」と言われても、読者としては「そりゃあるだろうさ」と応えるしかない)

含意は多くの場合イデオロギー的であり、また、センチメンタルだ。

これは当たっている。いい線、行った。ここを起点にして、「現代俳句」という語が含意として持つイデオロギー、センチメントに言及するのであれば、興味深く意義深い記事になったはずだ。ところが、ユースケさんは、論理も思考手順をすっ飛ばして、確かに「客観写生」「花鳥諷詠」と声高に叫んでいる人々は愚かであるかもしれないけれど、「現代俳句」「俳句形式」といった言葉を無意識に、盛んに使う人たちも、又、愚かには違いない。 と、なんともセンチメンタルでイデオロギー的な物言いで締めくくってしまう。これでは、「あんたも愚か」と返されてもしかたがないぞ。

あとの部分も、残念ながら、ほとんどボロボロである。

まず、「の」や「な」が取れて複合語になったとき含意が発生するというが、まったく違う。これだけの例(構造改革やらなにやら。例の選択がヘンだけど)を挙げれば、含意の発生する契機が複合語うんぬんではなく、別のところにあることはわかりそうなものだが、なんでこーなるの?(萩本欣一調)。

余談になるが、「社会主義」(社会に関する主義?)という例示は、情けなさ過ぎて涙が出た(ユースケさんの所属学部は問うまい)。まさか、本気じゃないよね? ギャグが滑ったんだよね?

「現代俳句」という語の含意へと論点を絞るべきなのだ。そこに含意が生まれる契機には、まずもって「俳句」と「伝統」との密接な関係が前提としてあることは明らか。そのうえで、(助詞「の」のとれた)「現代俳句」という語に、標榜(俳句作者側)、批評的把握の要素などが、ざっくりと考えられる。そこをていねいに考えていけばいいのでは?
(現代性modernitéなんていう文芸批評好きが向かいたがるテーマなどは、俳句の場合、とりあえず横に置いたままでいいだろう)

もうひとつ。

「現代俳句」という言葉に含まれた「現代の俳句」という意味以外の含意について、もっと慎重になった方がいいだろうし、その含意をくみとった上で言葉を使用している人間が実はあまり多くないのではないかという気がしている。

ここはそうとうひどい。この物言いは、書き手が「含意をくみとっ」ている場合の物言いだ。最初に書いたように、ユースケさんは「含意がある」と言っているだけで、含意をまったく汲み取れていない。汲み取れていない者から、「汲み取って慎重に使用せよ」と言われる筋合いは、読者にはない。

まとめておく。
骨格の部分で致命的なことは、
1)含意の内容へのアプローチがない。
2)それがないまま、他人の語の使用に慎重さを要求するという支離滅裂さ。
部分的に致命的なことは
3)語が含意をもつ作用についての複合語うんぬんは意味不明。というか明らかに間違い。

3)の部分は、話の本筋ではないとの反論があるかもしれないが、それだから、ボロボロでいいことにならない。余談部分での不備で、本筋の品質に不信を持たれるのはもったいない話である。

もちろん、ユースケさんの記事が「試論」的なものであることは承知している。それをとやかく言うのは無粋かもしれない。ユースケさんは俳句をつくる人である。今回、散文だし、まあ、どうでもいいんじゃない?という意見もあるだろう。しかし、それなら、俳句を作ることに専念し、何かを論じることは、それができる時が来るまで待つべきである(私は実は、それを勧めるけど)。そうしないなら、しっかりと考え、しっかりと書くべきだ。

私がユースケさんに告げたいことのうち2つは、以前、告げたこととまったく同じ。

論点整理。
論理をていねいに積み上げよ。

もうひとつ(実はここからが重要だ)。
********************************重要だから、線、引っ張っちゃった。
ちょっと気になるのは、自分が気づき知っていることを、多くの人が気づいていない、知り得ていないという前提に立っているのではないかということだ。そういう勘違い的な不遜さが見受けられる。煽り口調から、そう思えてしまうのかもしれないけど。

そうじゃなければいいのだが。もしそうだと、当たり前のことを、さも大発見のように叫んでいる「裸の王様」状態の深みに、書けば書くほど嵌っていく危険性もある。

それに付随して、「考えたこと」を書けば、他者を説得できるはずと考えているフシもある。それが成功するには、当然ながら最低限の論理が必要だ。それがないのに説得されてくれるのは、よほどオツムの弱い人だけだ。

もっと言えば、まず自分の側にテーマについての理解なり整理がないと、話は始まらない。といっても、すっかり理解・整理したうえで書け、という話ではない。書くことによって、理解に近づいていけばいい。

この手の自発的な書き物の目的は、「自分自身が理解すること」である。原稿依頼があるわけではない。自分で好き勝手に書くわけだから、まずもって自分の「ため」にすることだ。だが、それはひとりよがりの行為ではない。ユースケさんが「理解」に向けて、ていねいに論を進めれば(今回なら「現代俳句」の含意とは何か?についての理解に向けて論を積み上げれば)、読者も理解できる記事になる。書き手の理解の過程に、読者に寄り添ってもらうということだ。この手の散文を書くということは、つまりは、書き手の理解に、読者につきあってもらうということなのだ。

簡単に書くつもりが長くなってしまったざんす(最後にお約束のトニー谷調)。

付記:
ユースケさんの記事についての長く書くのは、特に、否定的な記事を長く書くのは、これを最後にする。拝読して「こりゃひどい」「ボロボロだ」と思ったときも反応しない。だから、今回のこの記事は、私からの最後のおせっかいと思ってくれたら、幸せざんす(再度トニー谷)。

付記Ⅱ:
フォローをひとつ。ユースケさんは若い。年齢のことは言いたくないが、実際、若い。この年齢のときの私はといえば、サルかヒトかもわからないくらいだった。それを思えば、なにかを言おうとしているだけでもたいしたもんだ、というべきかもしれない。だが、一方、年齢さえ重ねればなんとかなるというもんでもない。ユースケさんも、そのことはアタマに置いておくべきだろう。
by tenki00 | 2006-07-06 22:16 | haiku
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