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俳句と作者(1) 作者の現実

句は、作者が書くのではない。俳句「が」、作者を通して書くのだ。

ということは前に言った。俳句「が」としたところ、信治さんに倣った。この記事ね。

このことは本当なのだが、これだけだと、ちょっと思念的だし、ぴんと来ない人も多かろう。現実的な、というのはつまり卑近な話題に「俳句と作者」というテーマでいくつか。

さて、むかし、句会で、「短波」という語を含んだ句(砂粒の音する秋の夜の短波・天気)を投句したときのこと。合評になって、南志編集長が私に向かって、こうおっしゃる。「短波なんて聞いたことあるのかい?」

ん? それ、句とどういう関係があるんだ? そう思ったが、もちろん口にはしない。私としては「ない」でも「ある」でも、答えはどっちでもいいが、「ない」と答えたら、話がややこしくなるから、「はい。ありまする」と答えた。

南志さんは、別に、そんなこと(私と短波放送の関係とか?)に興味があったわけではなく、なんとなく聞いてみただけだろう。たいした意図はないのだろう。

だが、俳句世間一般に、句の作者の現実に関心が向く人がいる。読むとき思いをはせる程度ならまだしも、読み終わったあとに、現実の「ウラ」をとろうとする人もいる。

このへんは性分だろうか。句は句。句の現実は句の現実。作者の現実に、私は興味がない。仕事の仲間と恋愛の対象とはまるっきり別だ(この譬え、あきらかに間違っている気配)。

もちろん、作者の人としての現実と俳句が関係せざるを得ない場合もある。無関係なままでは不誠実な場合も生じる。たとえば、私が太平洋戦争で戦死した友を弔う句を詠んだとしたら、それは不誠実だろう。句が狭い意味の「現実」を背景とする場合は、作者の狭い意味の「現実」とのある程度の一致のようなものが必要になってくる。

だが、作者の現実の詮索は、不要と考える。逆に、句そのものと向き合えないということであり、これは句に対して不誠実である。

一方、句座をともにする人たちについては、いちいち聞かなくとも、その人の狭い意味での「現実」の一部を存じ上げているというケースも多い。句を読んで、なんらかの印象を抱き、そののち、作者を知って、句の印象に、作者の「現実」についての知識によってもたらされる印象が付加されたりもする。

これはしかし、ずいぶんと窮屈なことだ。読者にとって、作者にとって、また句にとって。

作者の狭い意味での「現実」。年とってるとか、女性だとか男性だとか、何の職業だとか、中卒だとか(ここ笑うとこです)、性癖が変態的だとか(ここも笑うとこ)、そんなこと、句に関係ないでしょ?

違う?

そして、ちっぽけなアタマで作者の現実を類推するのは、もっと良くない。男性だからお人形遊びなんてやってなかったはずだとか、貧乏だから「鱧」という季語はおかしいとか(ここ笑うとこです)、読者の知ったこっちゃないことを、句を読む助けにするなんて、他人様を舐めた態度でしかない。

また、句の作者は、自分の日常を読者に報告しているわけではない(とはいえ「そんなことは日記に書いてよ」という句は多い)。

つまり、いらんことを知ろうとするな、いらんことを持ち込むな、ということになる。句を読むときに。

しかしながら、作者についての予備知識をべったり絡ませて句をうんぬんするというマナーは、俳句世間においては少なくないようだ。それでべつだん問題のない場合もあるが、そうでない場合もある。

このあいだ届いた「」2006年7月号。鶴麿会長の選評にこんな箇所があった。

無駄遣いしたき気分や飛花落花  義郎
 花びらのはらはらと散る下で、ふと華やぎに心動く時の思いとして、どこか納得させられるものがあります。病後の療養の日々を知っているだけに、日常にあるもどかしさや辛さを打ち壊すように、やや投げやりな気分になって、買い物にうつつを抜かす楽しみを考えるのは理解できるように思います。しかし天の声は、そこに、一家の長としてのあるべき姿を要求するのです。この極めて人間的な思いに深く共鳴するのです。


鶴麿会長の選評は、毎号、私にはほとんどチンプンカンプンで、何が書いてあるのかわからなくて困ってしまうのだが、この箇所は、「俳句と作者」という点でも、かなり困ったことと思った。

硬いことを言わなければ、別に「病後の療養の日々」を選評に持ち出してかまわない。だが、この句のどこに「病後」があり、「一家の長」があるのかが、私にはまったくわからない。それは、評者が、句とは無関係に知っている狭い意味の現実に過ぎない。私も、義郎さんの「病後の療養」のことは存じ上げている。でも、この句をそれと関連させようとは思わない。

ひとつ、大きな問題と思うのは、「病後の療養」を現実に送る人は、どんな句をつくっても、それを前提に読まれてしまうという事態である。それは、作者に失礼なことではないのか?

「病後の療養」は一例に過ぎない。なんでもそうだろう。たとえば、なむさんの作る句に、すべて仏教的含意がある(あるわけない)と読むことは、あるいは団塊の世代の作る句のすべてに、学生運動の怨念を読み取ることは、あるいは女性作者の句すべてに「母」や「女性性」を読み取ることは、失礼であると同時に滑稽である。

作者の(しばしば類推にしか過ぎない)現実(の欠片)を、読者の都合で、句の「読み」に持ち込むことは、ごくごく単純な理由で(ばかげているからという理由)、よくよく慎み深く、避けるべきなのだ。
by tenki00 | 2006-07-05 09:33 | haiku
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