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俳句の読者!(ビックリマークが全然似合わない)

狂流さんが、むかし、フリオ・イグレシアスの歌は、聴いている「ひとり」に向かって歌っているような歌だと言った。

なるほどなあ。ほんと、そう。まあ、ラヴソングの至上のかたちなのだが。

俳句のようなものをつくっていて、その読者を考えるとき、私の場合、いつもこの話を思い出す。もし、つくれるなら、そんな句がつくりたい。誰かが読んで、その句を「たくさん」の人に向けられた(読んでもらいたいという気持ち、なにかを伝えたいという意思…)と感じるのではなく、まるで「自分ひとり」のためにあるような句だと思ってもらえるような句。

その「ひとり」は、誰だかわからない。いわゆるエラい人でなくともかまわない(エラ人に狙いを定めるのは結社の投句、エラい人たちに狙いを定めるのがいわゆるナントカ賞への応募かな?)。その「ひとり」が句友であれば、それはそれで嬉しいが、俳句をやっている人でなくてもかまわない。

ともかく、「ひとり」に向かって伝わりたいという意思というか、そんなたたずまいの句。

ところで、豆の木賞という互選のイベントの選が、とりまとめ当番の私のところにつぎつぎに届いている。皆さんの選を見て思うのが、評価の基準、嗜好、俳句観というのは、かくもバラバラなんだなということだ。評価に共通の軸なんてものはまったくなく、嗜好はほんと人それぞれ。つまり、一人ひとりにとって、伝わる句があり、伝わらない句がある。ある意味、作句のバリエーションよりも、読みのバリエーションのほうが幅広い。

だから、面白いんだろうと思う。俳句は。

別の角度からいえば、誰かに伝わらないことを怖れてはいけない。八方美人ではいけない。999人が無視し、評価を与えなくても、自分にとっての「ひとり」の読者に、「自分ひとり」に届くかのように思えってもらえる句。それが1句あれば、いいわけよ(と突然、口調変わる)。

しかしまあ、俳句というのは、ほんとうはもうすこし集合的なもので、句座に愛されるような句というのもあるのだけれど、基本的に、想定する読者は「ひとり」。誰だかわからない「ひとり」なのだな、これが。

つまり、不特定多数ではなく、特定少数ではなく、不特定ひとりに向けた句

太字、使ってしまった。
by tenki00 | 2006-06-11 19:06 | haiku
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