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懐旧病

「ノスタルジアは病気なんだよー」と、雪我狂流さんは叫んだ。某句会。

まさしく。懐旧病である。病である。

懐かしい情景の広がる句が、まあ、そこまで行かなくても「ああ、こうだったよなあ」と思ってしまう句が、いま、出てくる。これって、どうなの? 俳句は「いま」のことを詠むべきなのでは? などと少し思ってしまうが、自分でそういう句を作らないかと問われれば、作ってしまうことがある。

いまはもうない風景にはシンパシーを感じるし、そうした句を作ってしまう、そのときは、「いま」ではなく、いまはもうない「過去」の風景のなかにいる。

歴史(history)は物語(story)であるといわれるように、記憶も、また物語の感触をもつ。記憶はまた、一見、個々パーソナルな具体が成分のように見えても、その記憶とは、実は「共有された物語」をたどることであったりする。仔細は個人的にヴァージョン化するものの、祖型は同じひとつの物語(あるいは物語群)であったりする。

甍の波のむこうに雲がぽっかり浮かんでいたり。看板のならぶ猥雑な繁華街の路地jに靴音が響いたり。

「模造記憶」「共同記憶」と内田樹は呼んでいる。これ、一般的? ま、それはおいておいて、以下は上記リンクからの引用。

小津の映画に出てくる終戦直後の美しい湘南海岸や銀座の「若松」や北鎌倉の竹林なんか、ぼくは見たことがない。にもかかわらず、ぼくはそこにはげしい「懐かしさ」を感じます。でも、それがぼく自身の中に根拠をもつ懐旧の情であるはずがない。おそらくは小津安二郎自身がそのような風景に注いだまなざしの暖かさにぼくが同調していることのこれは効果だと思うんです。

今日が選句期限の人名句会にこんな句もあった。

   東京の沖に雲ある小津忌かな  篠

「過去」という(構造的・共同的)物語を読むことも、「いま」のことだと思えば、ノルタルジアは病であると自覚したうえで、いまはもうあるはずのない風景のなかで、いま句にとして言葉を結ぶものがあってもいいのかもしれない。
by tenki00 | 2006-01-20 19:35 | haiku
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