雪女郎-ローカルということ

雪女郎・雪女の句は多い。でも私にはこの季題がよくわからないので、まず作らない。関西の片隅で生まれ育ち、そのあとは東京のはずれで暮らしているから、まったく実感がないのだ。だから、もしも句会でこの季題が出たとしたら、「雪女郎すごくふとつてしまひけり」などと、熟考5秒のバカ句で事を済ませることになる。雪に関するいくつかの季題もそう。先日、「雪合戦」という季題が出たが、これもあまり実感を見出せなくて、5秒で「八甲田山と化したる雪合戦」と短冊に書いて放り込んだ。

実感や体験のない季題はつくるべきではない、などと言うのではない。体験がなくとも、それを季題とのオリジナルな距離として堅持しながら、いくらでも作ればいいという融通無碍な考え。見たこともない「氷山」を詠んだりもする。ただ、「雪女郎」という季題は、「ちょっとした諧謔」として、とても気軽にたくさんの句が出てくる。それってそんなに面白がるほどのことか?という印象をもつことが多い。その程度の理由だが、作ろうかという気が実際に起きないし、きっとこれからも敬遠したままだろう。

ところが、先日、北国出身の俳人とお話させていただいたとき、興味深いことが聞けた。「雪女郎」は、「実感そのもの、体験そのもの」だとおっしゃるのだ。

雪の多いところで生まれ育った人にとっては、もちろんそうだろう。この当然の事実は、話として耳に聞くと、あらためて「そうか、そうなんだ、なるほどなあ」と納得できる。「夜話」なんていう季語も、私には実感がなかったが、その方にはそうではない。

そこで思い出したのが、去年の冬、秋田に行ったときに、田んぼに群がっていた白鳥だ。白鳥がこんなにカジュアルに景の中にあるのを見て、そのときもあらためて、びっくりした。そのとき御一緒させていただいた俳人にとって、白鳥は、日常であり、「白鳥来」は、屋根のすぐ上を飛ぶものであり、白鳥の鳴き声も、季節の到来を告げる自然の声なのだ。

ついでに思い出したのが、やはり冬に土佐にお邪魔したとき、句会で「冬向日葵」を詠み込んだ句がたくさん出たことだ。実際、向日葵がたくさん咲いていた。でも、この景にも句にも、またもや、あらためてびっくりしたのだった。

ローカル性というと味気ないが、暮らしてきた土地と時間、暮らしている土地と時間、それらと俳句は密接にならざるを得ない。自分のローカル性をどのように捉えるのか。それも、俳句をつくっていくうえでおもしろい課題なのだと思う。
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by tenki00 | 2005-12-27 18:59 | haiku
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