若い人の俳句?

俳句を読むとき、作者の年齢なんて考えない。面と向かった句会なら、また現実に人間を知っているときは、どのくらいの年齢の人が、その句を作ったということをわかって読むことになるが、それが一般的な句の読み方とは思わない。たとえば、36歳で死んだ子規の句は、今からすれば、すべて「若者」の作った句だ。でも、そんな前提をもって読むわけではない。また、いただいた句集や買った句集を読むとき、作者の年齢をなんとなくわかって読む場合もあるが、お歳を召された人の句だから、若い人の句だから、というアタマでは読まない。

若い人の句が「新しい」わけでもない。お年寄りの句が「古くさい」わけでもない。身近なところでは、「麦の会で、もっとも古くさくない句をつくる人は?」と問われたら、「池禎章さん」と答える。池さんは93歳だか94歳である。これを考えただけでも、私の頭のなかで、「若いこと・老いていること・句が新しいこと・句が古くさいこと」の座標軸はぐにゃぐにゃとこんがらがってしまう。

最近、ひょんなことから、ルート17という若い人の「俳句ネットワーク」(だったっけ?)を、ハイクマシーンのユースケさんがらみで知り(話は、たじまさんからちょこっと聞いていた気がする)、サイトも拝見した。「先生」という呼称に関連づけて記事にもしたが、それは、あくまで枝葉末節。。そこだけ取り上げるのでは申し訳ないと、句を拝読(実を言うと再読)した

結果。ほぼ全滅。

「20代の有力な俳人たちはその多くがルート17に所属している」とユースケさんは書いているが、ホントなの? このあたりはまた、たじまさんに聞いてみよう。この集まりは、たじまさんが仕込んだのだと解釈している、ちがう? まあしかし、「ほぼ全滅」は私が読んで感じたことだから、アテにはならない。このさき、おもしろい句を読ませてくれる人が、ルート17から出現することを、個人的に祈るのみ。

一方、ユースケさんが言う「理念」も、私はあまり信じない。句座は大事だが、俳句を作るのは個人である。理念で結束した同世代の集団(同人みたいなもの)が、理念なく結びついたネットワークよりも、生産性が高いということはいえない。本人たちがヒロイックな気分に浸るためのブンガク運動をやってるわけでもないだろうから、結果(句作)で、理念の有効性を示すべきだろう。

きっとルート17という集まりは、あえて「理念」を抜きにしたのだと思う。そのへんは戦略もあるのだろう。理念がないからダメとは言えない。理念より戦略のほうが大事であることも多い。

ルート17のサイトを拝見した範囲での、私の今のところの把握は、「俳壇へのイニシエーション(入社儀礼)の準備を着々と進めている20代の人たちの集まり」なのかな?といったところだ。だったら、年長俳人を「先生」呼ばわりしておいて損はない。ビジネスをスムーズに進めるためなら、私も、百万遍だって「先生」を連発するし、深々と頭を下げもする。ただ、それが効く相手と効かない相手があることも知っている。効く相手はロクなものではないこともまた知っている。

ところが、一俳句読者としての私には、俳壇で有力かどうか有名かどうかなんて、まるっきり興味がないし、関係がない。おもしろい俳句を読ませてくれれば、それでオーケー。だから、ネットワークでも、理念で結束した同人でも、どっちでもいい。20歳だろうが94歳だろうが、どっちでもいいのだ。

ところで、ユースケさん。以前、「俳句」という雑誌か何かの鼎談で、「芭蕉の普遍性」がどうたらこうたら宣ったノータリン俳人のこと、原典に当たってくれて、軽く報告してくれるという話だったと思うんだけど、見つかった?(この部分、私的伝言)
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by tenki00 | 2005-12-19 23:50 | haiku
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