某日、席題句会で、理科室にビーカーやらフラスコやらが並んでいるといった句が出た。字余りではありません。この内容が12音になっている。あとは季語。
「夏休み」という季語で、概ね、これが好評だった。でも、私は、「それだと泥棒が詠んだみたいだな」と思った。
かの十二技法
(*)じゃないけれど、どんな季語を持ってくるかが大事なことが多い(俳句のジャルゴンで言えば「斡旋」てやつですな)。
これ、俳句(句会)をゲーム的に捉えれば、頭の捻りどころだし、ブンガク的に捉えれば、作家性の出るところですね。
私自身は、こういう場合(というのはつまり取り合わせの構造の場合)、「限定」にはなっても「説明」にならないように心がけていますが、なかなか難しい。「限定」というのは句意がぼんやりしないように、という意味。「説明を避ける」というのは、事態の念押しや感興の押しつけを避けるという意味ですが、線引きは難しい。その意味で難しいのですが。
まあ、そんなこんなで、もうすこし俳句を作っていくことにします。
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遠藤治:十二音技法」が俳句を滅ぼす
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中村安伸:十二音技法 たとえ俳句が滅びるとしても
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「十二音技法が俳句を滅ぼす」への言及記事
いま読んでも面白い。遠藤さんの最初の記事に付いたコメントや、いろんな反響(ブログ記事)も含め。
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