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フェイクとフィクション

近恵さんのご自分の記事への補足コメント

神野紗希さん フェイク俳句のこともちょっと

前に書いた記事とちょっと齟齬をきたすかもしれないが、フェイクとフィクションとは区別すべき。これはすでにいくつかの指摘があることと思います。

「最終戦争」というような「誇張」はまた別として(これって彩ってものでしょう、単に)

フィクション的な様相というのは個々の句がしばしばまとってしまうが、上田信治さんが「フェイク俳句」と呼ぶとき、フィクション的様相とはまた別に、俳句と言いながら(俳句の顔をしながら)、俳句に備わる「私」の保証を無視したもの、といった感じだろう。


カルロス・カスタネダに『呪術師と私 ドン・ファンの教え』に始まる一連の書籍群がある。ネイティヴ・アメリカンの呪術的思考やらその他の文化やらが、民族誌の体裁で綴られている。スピリチュアルなネタが満載で、60年代から70年代のいわゆる「ニューサイエンス」の脈絡でさかんに取り上げられた。欧米圏ではベストセラーにもなったらしい。邦訳は70年代。人文系の人たちのあいだで話題になった(私は最初の本は読んだ。もうほとんど記憶にないが、マジックマッシュルームとかも頻出して、おもしろく読めた)。

カスタネダが大学で人類学を学んでいたこともあって、「呪術師」シリーズは、フィールドワークの産物、それが一般にも読みやすく書かれている、それでブームになった、と、当然こう考えられた。

ところが、これ、ちょっとおかしくない? フィクションなんじゃないの?という声があがり、調べてみると、どうも事実ではないらしい。事実が綴られているのではないと、だいぶまえに結論されたはず。

つまり「フェイク・エスノグラフィー」(贋の民族誌)だったというわけ。

民族誌は、学問的なレポートです。民族学・人類学の土台ともいうべきもの。そこがフィクションであっちゃ、やっぱりまずい。「小説」と銘打って出版しないといけない。


俳句の顔をした「贋俳句(フェイク俳句」に実害のありやなしや。それは知らないけれど、読者が信頼していたことを裏切るという点で、フェイク・エスノグラフィーと似ていなくもない。

少なくとも、フェイク俳句は、俳句論・俳人論を、その人の(社会的)履歴を土台に据えて論じようとする人には迷惑、というか、論外になる。その手の評者にとって、出産の句と、「彼女は××歳で第一子を出産…うんぬん」という基礎情報はセット。事実は絶対に事実でなくてはならない。じつは、その出産の句、詠んだのはオッサンでした、では話にならない。


でも、私、結婚しているよ。嫁はんが夜中、冷蔵庫のそばで泣くこともあったにちがいない。こんな私だもの。

そして、まだお会いしたことのない澤田和弥さんについては、私、「性獣」と信じきっているのです。




by tenki00 | 2011-04-11 22:00 | haiku
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