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なぜ、俳句においては、作者と作中主体を同一視するというような、やわやわの基盤を必要とするのか

という問いなのですが。

これ

単純に、また下世話に、「句会」という特殊事情が大きく絡むと考えてはダメなのですか。

俳句を≪読む≫という行為は、句会という、俳句にとってある種空気のように自然な場で展開されるわけで、その、通常は二桁単位の人数のなかでは、当然、顔が見え、性別・年齢が見え、さらに社会的属性(未婚・既婚、職業etc)が見えるケースもめずらしくない。

(ほんと卑近に説明すれば)

例えば、清記用紙に「乳飲み子」の句があったとして、それに点数が入る。作者を開けてみて、オッサンだったら、まあ、その場では「なにやってんだよ!」と笑われるだけで済むものだろうけど、それが度重なると、句会の空気はしだいにあやしくなってくる。

おまけに、オッサンが、乳を飲ませる句を、句会で点数が入る程度につくることは難しくない(そのへん、創作としての俳句の「易きに流れやすい」特性)。

さらに、インターネット句会のケースだと、いわゆるネカマ、男性が女性になりきって、投句しつづけることもできる(逆も可)。昔、そういう「事件」に遭遇したことがあるのだが、いいか悪いかは別にして、オッサンが女性のふりしていたことがわかったとき、それまで女性だと思って読んでいた人の反応というのが、なんとも妙な感じて、空気が重かった。

「安心して遊んでたのに、なに、これ」といった…。

何が安心なのかよくわわかりませんが。


句会という肉眼で顔が見える距離で、俳句とその≪読み≫がまず循環している。

これは「有名」な俳人も初心者もあまり変わりがない。実際、有名俳人とそのへんの句会でいっしょする機会はぜんぜんめずらしくない。

そして、それが結社や同人誌になり、人数がもうすこし増えても、≪句会での信用≫やコミュニケーションは維持される。

さらに、それが「俳壇」になっても、同じ事情。

なのではないかな。



澤田さんと信治さんと文学的な応酬がつづくなか、こんな、なんとも下世話で非・文学的なことを言うのは、ひじょうに気が引けますが、

(文学的な考え方ができなくて、ほんと、すみません、って感じです)

なぜ、俳句においては、作者と作中主体を同一視するという「信用」の基盤が必要とされるのかの理由は、実は、そんなところにあるのではないかと思いますけどね。

村はずれの夕暮れどき、「誰だ? ああ、おまえか」と素性を確認しあった黄昏の語源。これをやってるんだと思います。

トゥワイライト・ゾーンの不安の中で句会(=読むこと)をやりたくないんですよ、俳人さんたちは。




by tenki00 | 2011-03-28 21:23 | haiku
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