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俳句の内部

このまえの記事で引いた小野裕三さんの一文の一部を再度。

貪欲にJ-POPという外部へ言葉を求めたことの主語は「俳句」であり、俳歴三ヶ月の新人という外部に才能の光を求めたことの主語は「俳句」である。「俳句」が内に孕む衝動のようなものが、動いた結果でしかないのだ。
プロブレマティックな一冊~『超新撰21』をめぐって:「俳句樹」第8号

「俳句」という主語の置き方はロマンチックで、人を議論に突き動かす力があります。「俳句」という主語でいいのかどうか、私自身の見解は保留としておきます。

「俳句」が内に孕む衝動」と言ってしまうと、山田露結さんが言うように、それは「必然」ということかもしれません。どうなんでしょう。そうなのかどうかも保留。

ただ、しかし、俳句/俳句世間に「外部」を求める傾きがある、とは言えるようです。

ある人たちは、こんなことを思うのでしょう。

……俳句は、その内部では、なかなか更新されていかない。俳句村の内部では、俳句をつくるのがルーティンのようになってしまい、読者は、村のなかにしかいない。否、俳句はろくに読まれることもない。句会に慣れすぎた俳人/俳句愛好者は、自分の句を読んでもらうかわりに他人の句を読む、という互酬性の輪から出ることがない。

きょう俳句が、きのうと同じように量産されることに飽き飽きしてしまったという人が多いのでしょう。で、「これまで見たこともない俳句」のヒントが、俳句の外部にあるんじゃないか、と。俳句の外からやってくる新参者が、新鮮な驚きをもたらしてくれるのではなかろうか、と。

そういう心性、自分がやっていることに飽き飽きしてしまった人の心性は、なんとなく理解できます。

でも、その半面、俳句村での自分の立場や存在感を気にかけていたりする。

俳句の「内部」と「外部」。ううむ、なんだか、そそられない話題です。(なのに、書いてる)




by tenki00 | 2011-01-20 19:00 | haiku
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