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俳句の外部

『超新撰21』刊行から約1カ月。このアンソロジーに入集の種田スガル「ヘイブン」に関して、小野裕三氏が次のように書いている。

(…)貪欲にJ-POPという外部へ言葉を求めたことの主語は「俳句」であり、俳歴三ヶ月の新人という外部に才能の光を求めたことの主語は「俳句」である。「俳句」が内に孕む衝動のようなものが、動いた結果でしかないのだ。この顛末を見ていると、何か「性急さ」のようなものを感じる。「なぜもっと俳句の中で練り上げられた言葉や俳句の中で練り上げられた才能をこの本で取り上げようとしなかったのだろう」と、これは単純な疑問として湧いてくる。しかし繰り返すが、それをしなかった「性急さ」の主語は「俳句」である。
プロブレマティックな一冊~『超新撰21』をめぐって:「俳句樹」第8号


この件に関して、私自身の応答は、偶然にも、同じ『超新撰21』に書いた一文「外部から「俳句」の内部へ 榮猿丸小論」にすでにある。

素材の新しさを狙った俳句は多い。(…)だが、猿丸俳句はそのような脈絡で語られるべきではない。/新しい素材を求める作句姿勢とは、俳句の内部から、俳句の外部へと手を伸ばす態度だ。俳句内部というレガシーの領分から、俳句外部という常に更新される世界(しばしば「現実」と呼ばれる)へと手を伸ばす。だが、その手法こそが古臭く、従来的である。/猿丸俳句は、それとは逆だ。俳句の外部から、俳句の内部への手を伸ばす。/外部とは、猿丸の暮らしている場所である。(…)現実という当たり前の立地点から、彼は「俳句の国」へと出かける。

あくまで俳句であろうとするこの頑ななまでの踏みとどまり方は、俳句の外から俳句を見つめ、俳句に迫ろうとする人の態度だろう。


この件に関する私の考えは、これ(あるいは、同書所収の一文)でほぼすべて。

補足的に、すこし思うのは、俳句の「外部」を、J-POP(あるいは川柳や短歌、現代詩)とするのは、隣接分野としてはわかるが、どうなのだろう?ということ。それだと結局「文芸」という「狭い」世界で閉じている。「外部」はもっと広いものだろう(reality でも actuality でも呼び方は何でもかまわないけれど)。

ところで、榮猿丸が、今回の種田スガル作品に限らず、近年生み出される俳句作品のなかの「J-POP的なもの」に対して、あるいは「ポエム」のような俳句に対して、周囲から見れば過度とも思えるほどの批判を言明することを、単に、彼の好みの問題と片づけるわけにはいかない。「俳句の中で練り上げられた言葉」を自身が求めるからこそ、どこかからひょいと持ってきたような俳句を認めるわけにはいかないのだろう。

ちなみに、私は、J-POPだろうがなんだろうが、「もじる」ことは一概に否定しない。かんじんなのは、うまく「もじる」ことだ。猿丸俳句にしても、広い意味で「J-POP的」あるいは「西欧ポップミュージック」的なセンスの「もじり」と言えないことはないかもしれない。

「うまく」というのは技巧のみを言うのではない。「ヘタを打つな。うまくやれ。話はそれからだ」。そんなかんじです。




by tenki00 | 2011-01-18 12:00 | haiku
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