あ、そうそう、
上田信治さんの「フェイク俳句について」(週刊俳句・第181号)のなかの、この部分
天気さんの言う「俳句は媒介ではない」という事態
これ、
ツイートからの換言で、私のオリジナルが言葉足らずなのだ。少し補足が要る。
俳句は媒介ではないというのではない。句が媒介ではなくなることがあるということです。
媒介である句、媒介に過ぎない句はたくさんある。簡単に言えば、景色や物事を描いて伝える俳句。それがもし、よく出来ていたとしても、それなら元の景色や物事を見れば済むんじゃないの?という句。
例えば、いわゆる「写真+俳句」の愚かさは、このへんにある。描くこと・伝えることが最終目的になっている。写真も俳句も、ともに。
写真にしても、カレンダーによくあるような、きれいな景色がきれいに映っている凡庸な写真って、よくあるでしょう? そこには「プンクトゥム」がない。
つまり、
私が言いたかったのは、俳句が媒介であることをやめて、プンクトゥムが備わったとき、特別な句、ナイスな句、すばらしい句になる、といった感じ。
プンクトゥムは「刺さる」ということです。「この句、刺さる」という。「刺さるとこがある」という。
だから、どの句も「刺さる」わけではありません。私(たち)は、その「刺さり」との出会いをもとめて、というか、ときどき「刺さり」を経験できるからこそ、俳句を読んでいるわけです。
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