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陳腐・凡庸はどこで生まれるのか

ちょっと昔の話。

週刊俳句・先週号(第158号)「もうひとつの(というか まったく別の)鶏頭論争 『俳句』2010年5月号を読む」で、高柳克弘さんの「現代俳句の挑戦17 川崎展宏のイノセンス」を取り上げ、「「燃えるような夕焼け」「薔薇のように美しい人」などのように、比喩は日常言語で広く使われている分(日常で言うか?こんなこと:引用者)、詩語としての新鮮さを失っている。(…)比喩が現 在の俳壇で避けられているということは、逆説的に、それだけ陳腐な発想や表現が横行している、という状況を 物語っている。」と引用したわけですが、そこでわざわざ「日常で言うか?こんなこと」と、どうでもいい枝葉のことにツッコミを入れたのは、陳腐・凡庸は、むしろ詩語においてこそ生まれるということが言いたかったわけです。

「燃えるような夕焼け」「薔薇のように美しい人」と いった(例が極端ですが)比喩の陳腐・凡庸は、日常にはまず登場しません。起源も運用も、詩(俳句も含めて)の世界の出来事なのです。あるいは安物のドラマ だけの出来事。

比喩は、日常的に使用されて擦り切れるのではなく、詩語の世界で擦り切れる。

日常語と詩語は、それぞれ別の在り方(文法・秩序・運用・読まれ方…)をしていますから、上下があるわけではないのですが、詩/俳句にかかわっている人に は、なんとなく、〔詩語>日常語〕という意識があるようにも思えます。でも、実際には違うのですね。

日常ではほとんど口にされることのない恥ずかしい陳腐・凡庸が、詩/俳句では、しばしば臆面もなく作品中に現れてしまう。これは当の作り手(俳人)は、 ひょっとしたら気づいていないのかもしれません(私も含めて)。
by tenki00 | 2010-05-19 23:00 | haiku
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