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死なない人はいない、たしかにそうだ

山口優夢「鶏頭論争もちょっと、にちょっと」、およびそれに触れた田島健一「主体という領域」、2本の記事を取り上げた中村安伸「「死」と「季」鶏頭から脇道へ逸れて」を読みました。
田島氏が「ひとりの人間に起こる出来事は、いつの時代も過不足なく起こる」と書いていること。これをもっと乱暴に、身も蓋もなく言えば「人はみんな死ぬ」ということになるかもしれない。
乱暴すぎますw

というか、あきらかに違うでしょう。

「人はみんな死ぬ」? そのように一般化してしまうと、山口優夢、田島健一両氏の記事でゆるやかにフォーカスされていた「作者にまつわる現実、作者を取り囲む社会的事象」はぜんぶ吹っ飛んでしまします(ぜんぶ吹っ飛ばして、別の話題を、というのが「脇道に逸れて」の意味なのかもしれません)。

田島さんの「ひとりの人間に起こる出来事は、いつの時代も過不足なく起こる」例によって「ニューアカ」風で(揶揄的に聞こえるなら、ごめんなさい)、私にもよくわかりませんが、違うと思います。

戦争、死病、放浪といった作者にまつわる現実、作者を取り囲むのっぴきならない社会的事象を、自分(の世代)とは無縁であるかのように述べる山口氏「鶏頭論争もちょっと、にちょっと」に対して、「それは、2010年時点でのキミの事情にとどまって歴史的な(じつは地理的でもあるのですが)別地点への想像力を欠いているだけなんじゃないの」と指摘してみたのが田島さんの記事だと思いました。

私流にいえば、私と誰かはいつも交換可能だということ。いわゆる自他交換性。

「みんな死ぬ」に一般化してスタートする中村さんの記事は「エロスとタナトス(でもないか?)」論(の変型? 以前?)にリビドーが入り混じり、どうしてこうなるのか、私には理解できず、まさか、別のアプローチから到達した「主題の喪失」(みんな死ぬから主題など不要)という冗談であるはずもなく、別の話をされていると解するしかないのでした。それなら田島さんの記事を引くことはなかったろうに、と。

死と表現行為を強引に繋いでみました、繋ぐ媒介項に「性的欲求」を持ってきてみました、という以外に読みようがありませんが、だとすると、
人間を表現へと駆り立てる衝動の根幹には「死への恐怖」があると私は思っている。
と唐突に置かれた一文には、「なぜ?」と根拠を問いたくなります。ついでにいえば、死と恐怖をこんなに無前提にセットにしていいんでしょうか。

死は、経験は、その他もろもろは、もう少しややこしく、手強いもののように思いますです。はい。
by tenki00 | 2010-02-11 21:00 | haiku
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