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薬罐

聞くところによれば、かの山口優夢君は、すでに新聞社の勤務(研修)に入ったらしい。

「週刊俳句」の運営に携わってくれて、まず「ありがとう」を。

最初に言葉をかわしたのは、何年か前、私が運転する車中だったと憶えている。優夢君がみずからのブログに書いた文章について、「季語を日本と結びつけて賛美しすぎ」と伝えると、後部座席の彼の顔は見えなかったが、きっと不満だっただろう。「こごと、ですか」といった反応が返ってきた。こう書くと、向こう気の強い若者のようだが、実はその反対で、とても人当たりがいい(内面は知らないが)。

火星の地学を研究していた彼から、発表レポートのサマリーのような書面をもらった。何が書いてあるか、私にはほとんどわからないが、こういう「科学の香り」が、自分はとても好きだから、たいへん嬉しかった。

何度か拙宅にも来て、優夢君は、たくさん食べた。yuki氏は、たくさん食べる優夢君を見るのが好きだった。体重超過を心配する彼の恋人には悪いことをしている気にはなりながらも。

…と、いちいち思い出話を書いていたらキリがないし、別れというわけでもない。


山口優夢君に寄す

  桃咲いて薬罐のやうな君なりき  天気


薬罐を短気とか激しやすいという意味にとられちゃうと、心外。みんなに温かいお茶を注いで廻れる人だと思う。ご活躍を祈る。

そして、「週刊俳句」への復帰の日を楽しみにしてるです。




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by tenki00 | 2011-03-31 12:02 | haiku

軽水炉

「そうとうやばい」とかいうなんだかふわっとした言い方とか、「もんじゅはもっとやばい」などと、去年の話題がいま再燃したり。

  秋茄子に少し似ている軽水炉  上野葉月

いや、もんじゅは軽水炉ではないのですが。

『豆の木』第11号(2007年4月1日)より。




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by tenki00 | 2011-03-29 13:39 | haiku-manyuuki

なぜ、俳句においては、作者と作中主体を同一視するというような、やわやわの基盤を必要とするのか

という問いなのですが。

これ

単純に、また下世話に、「句会」という特殊事情が大きく絡むと考えてはダメなのですか。

俳句を≪読む≫という行為は、句会という、俳句にとってある種空気のように自然な場で展開されるわけで、その、通常は二桁単位の人数のなかでは、当然、顔が見え、性別・年齢が見え、さらに社会的属性(未婚・既婚、職業etc)が見えるケースもめずらしくない。

(ほんと卑近に説明すれば)

例えば、清記用紙に「乳飲み子」の句があったとして、それに点数が入る。作者を開けてみて、オッサンだったら、まあ、その場では「なにやってんだよ!」と笑われるだけで済むものだろうけど、それが度重なると、句会の空気はしだいにあやしくなってくる。

おまけに、オッサンが、乳を飲ませる句を、句会で点数が入る程度につくることは難しくない(そのへん、創作としての俳句の「易きに流れやすい」特性)。

さらに、インターネット句会のケースだと、いわゆるネカマ、男性が女性になりきって、投句しつづけることもできる(逆も可)。昔、そういう「事件」に遭遇したことがあるのだが、いいか悪いかは別にして、オッサンが女性のふりしていたことがわかったとき、それまで女性だと思って読んでいた人の反応というのが、なんとも妙な感じて、空気が重かった。

「安心して遊んでたのに、なに、これ」といった…。

何が安心なのかよくわわかりませんが。


句会という肉眼で顔が見える距離で、俳句とその≪読み≫がまず循環している。

これは「有名」な俳人も初心者もあまり変わりがない。実際、有名俳人とそのへんの句会でいっしょする機会はぜんぜんめずらしくない。

そして、それが結社や同人誌になり、人数がもうすこし増えても、≪句会での信用≫やコミュニケーションは維持される。

さらに、それが「俳壇」になっても、同じ事情。

なのではないかな。



澤田さんと信治さんと文学的な応酬がつづくなか、こんな、なんとも下世話で非・文学的なことを言うのは、ひじょうに気が引けますが、

(文学的な考え方ができなくて、ほんと、すみません、って感じです)

なぜ、俳句においては、作者と作中主体を同一視するという「信用」の基盤が必要とされるのかの理由は、実は、そんなところにあるのではないかと思いますけどね。

村はずれの夕暮れどき、「誰だ? ああ、おまえか」と素性を確認しあった黄昏の語源。これをやってるんだと思います。

トゥワイライト・ゾーンの不安の中で句会(=読むこと)をやりたくないんですよ、俳人さんたちは。




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by tenki00 | 2011-03-28 21:23 | haiku

週俳的祝祭

小池正博さんによる週刊「川柳時評」は、毎週金曜日の更新。充実度・洗練度、高い。

週刊俳句にも触れていただいている。

週刊俳句」に話を戻すと、「週刊俳句は何ごとも主張しない」というのはひとつの明確なスタンスであった。「週刊俳句」がマンネリ感もなく200号を越えて進行中なのは、義務的に発行されているのではなくて、「おもしろいからやってみよう」という精神が生きているからだろう。その裏付けとして編集の労力とスキルがあるのは当然だが、祝祭的な楽しみが感じられるのは確かである。そういう精神が川柳には案外欠けている。
川柳の「場」はどこに?:週刊「川柳時評」

主張しないから、メディアではない。小池さんのおしゃるとおり「場」。




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by tenki00 | 2011-03-26 18:00 | haiku

原発

いま思うと、

  原発を借景にして毛糸編む  山口東人

重大な句だったのだなあ、と。つくづく。

そして、いま、こんなときに読んでも、この句の軽みは変わらない。そこが凄いです。


山口東人30句:週刊俳句第90号2009-1-11
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/01/30.html




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by tenki00 | 2011-03-25 18:00 | haiku-manyuuki

実用俳句

(…)ただひとつ思うのは、受け手がどのような反応をするのかを、相手に届ける前から想定し、ある意味で狙っているようなものは、商業として行い、成立させるだけでいいのではないだろうか。それはサービスだから、必要なものだとは思う。だけれども、いまここでそれを行うことは、文学のできること、というはなしとは、ほんの少しずれているような気がする。
It is that time.:夢の帆柱

含蓄。

反応を想定し、狭い意味でのニーズの充足を狙うのは、実用書の作り方です。俳句でいえば、実用に供するような俳句。私には要らないな。

もうすこし広義に解せば、ナニナニの「ため」に、俳句をつくったりはしないということでもあるです。




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by tenki00 | 2011-03-24 20:52 | haiku

消息

週刊俳句・第204号に、
●可笑しい 小池正博句集『水牛の余波』
●【週俳2月の俳句を読む】兎にも人にも
…を書きました。

ウラハイに、
【裏・真説温泉あんま芸者】空疎なスローガン 小野裕三「今回の大地震に関連して思うこと~次の時代の日本へ。次の時代の俳句へ」の違和感について
…を書きました。




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by tenki00 | 2011-03-24 12:32 | haiku

LOVES. - Naked Me

夜中のBSで「クワイエットルームにようこそ」という映画を観た。最後のタイトルバックでかかった曲。


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by tenki00 | 2011-03-23 23:20 | pastime

俳句にできること、ですと?

3月11日以来、私たちが経験していること。それを前にして、俳句にできること、できないこと、といった物言いを目にするようになりました。

そんなことを考える暇があったら、自分が、社会人として何ができるかを考えたほうがいいです。

以上。


…と、終わってもいいのですが、以下は、メモのようなものです。

つまり、「震災想望俳句」。しかし、まあ、なんというか、去年から「想望」流行りですね。

http://togetter.com/li/114468

「みんなで震災俳句をつくろう!」みたいな動きは、愚かすぎて、話になりません。


そうはいっても、「ワッショイ、ワッショイ、地震だ、俳句だ。津波だ、俳句だ」と、震災俳句(あるいは震災想望俳句)をつくりたい人はつくるでしょう。

私はつくらないし、読まない。それだけの話。

(一瞬目にしてしまったときは、あらまあ軽率でグロテスクだこと、と目をそむけるだけ)

(そのうち、表現の覚悟をもって今回の地震や津波を詠んだ句に出会えるかもしれません。それはそれで楽しみにしましょう)


でね、そうじゃないところの話。

震災想望俳句に対して否定的な人たちのなかにも、俳句が「無力」だとか「非力」だとかという言説を見かけ、ちょっと吃驚しています。無力とか力とか、そういうことを考えたことがなかったものですから、なに、それ? という感じです。

(みなさん、俳句の作者=俳人としての自覚が、とてもしっかりとおありのようで、こういう状況で、俳句の「力」の有無について考えたりなさるというのが、すごい)

そこでお訊きしたいのですが、今回、俳句の無力を感じる人は、では、いったい、どんなとき、どんなものに対して、俳句は「無力ではない」と考えていらっしゃるのでしょうか?

何か社会的なこと、あるいは集団に働きかけて作用するなんてこと、俳句に、できますか。つうか、そんなことをするために俳句が存在するとは、私には思えませんけど。


とは言うものの、考えてみると、俳句にできることが何もない、ということでもない。俳句にできることはひとつだけ、ある。「誰かに愛される」ということは、できる。

俳句は、なぜだか知りませんが、少なからぬ人々を魅了し、読ませ、自分も作ってみようかと思わせる。俳句にできることは、それだけです。

その結果として、誰かを笑わせたり、泣かせたり、暇つぶしになったり、あるいは人生を破滅させたり(これは大きな力かも)。

ほかに、できることって、あるんですかね?



ちなみに、俳句には、文芸には、この大災害を前にして、何もできないから、せめて募金を集めようという動きもあるようです。しかし、それは、冒頭にも書いたように、社会人としてやってくれ、という話です。



関連・参考記事 ≫http://pub.ooburoshiki.com/?eid=608




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by tenki00 | 2011-03-23 19:00 | haiku

娯楽

原典資料を探したが、見つからない。たしか権田保之助だったか、年表だったか、関東大震災直後の話。

わずか数日後には、早くも、焼け野原に仮設舞台をこしらえて、軽演劇(喜劇)を上演した当時のスターの話を読んだことがある。

娯楽は、人を励ます。


いまならテレビだろうか。しかし、どうだろう?

被災地でテレビを観ている人のことを想像できるわけではないが、東京キー局の流す震災・津波被害報道が、被災地の人を励ますようには思えない。

被災地以外の人がほしい情報を流しているようにも思えない。

(口の悪い人は民放各局のその手の番組を「災害エンターテインメント」「災害報道のワイドショー化」と呼んでいる。私もすこしそう思う)

(がんばれファクス、お悼みファクスを集め、貼りだして…という番組も一瞬目に入った。五輪と同じノリ。大災害を「イヴェント」のように演出し処理する。ある種のテレビ、ある種のチャンネルは、私たちの想像をはるかに超えて冷酷かつ愚鈍)

(災害を娯楽化することは、ここで言いたいこととまったくちがう。そうではけっしてない)

(民放各局が「輪番」制で、報道、子ども番組、お年寄り向け番組を放送すればいい、という人もいる。いいアイデアだと思う。実現はしないだろうけど)


例えばだが、あくまで例えばの話だが…

いつの日か、綾小路きみまろが被災地をまわって、いつもと同じギャグで爆笑をとる。そんなことがあれば、(テレビで見せてくれなくていい。そのことを知ったら)、きっと泣けるだろう。

そんな日が早く来ればあいいなと思う。




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by tenki00 | 2011-03-17 23:00 | pastime