<   2011年 01月 ( 25 )   > この月の画像一覧

喜味こいし逝去

喜味こいしが1月23日に亡くなった。

夢路いとし・喜味こいしの漫才は、私がいちばん好きな漫才。実際に寄席で見ることはなかったが、テレビで「いとし・こいし」の漫才を見るたびに、気持ちがふんわりした。




[PR]
by tenki00 | 2011-01-31 12:35 | pastime

俳句は…

…「そないに気張らんでもええがな」「そんなにむずかしいこと言いなさんな」てな感じで行くのも愉しいし、気張ったりむずかしいことを言うのも愉しい。どっちかだけだとつまらない。




[PR]
by tenki00 | 2011-01-31 00:30 | haiku

あす1月30日(日)

リブロ池袋で、鬼海弘雄×松山巌 トーク&スライドショー
~人々の暮らしと風景~ 『アナトリア』(クレヴィス)刊行記念
http://www.libro.jp/news/archive/001584.php

リブロ池袋本店

俳句関係者(というか、私の知り合い関係)が多数お出かけになるようです。ご興味のある方は是非。



この日、私は残念ながら、自分が世話人の句会。

お知らせを再掲しておきます。

くにたち句会
1月30日(日) 14:00国立駅南口
句会場所:キャットフィッシュ

10題ほどの席題。




[PR]
by tenki00 | 2011-01-29 12:20 | etc

またまた happy birthday

このあたり、混み合うのだ。

d0022722_12481574.jpg


きょうは苑をさん、あさってはうさぎさん。御二人様まとめてで、すまねぇ。

お誕生日おめでとう!




[PR]
by tenki00 | 2011-01-29 00:00 | pastime

happy birthday

お誕生日、おめでとう!
d0022722_1625455.jpg

きょう1月28日は知り合いの誕生日が混み合う「特異日」。

嫁はんであるところのyuki氏、お誕生日、おめでとう!

吾郎さん、お誕生日、おめでとう!

アネモネさん、お誕生日、おめでとう!

根岸グル(佐山さん)とこの次男坊、お誕生日、おめでとう!

ご近所のとこにいる若い職人さん、お誕生日、おめでとう!




[PR]
by tenki00 | 2011-01-28 00:30 | pastime

1月のくにたち句会 再掲

1月のくにたち句会は、1月30日(日)
14:00国立駅南口

10題ほどの席題。

お初の方も、ひさしぶりの方も、ご常連さんも、よろしくどうぞ。
披講時・句会後は飲み食いも。




[PR]
by tenki00 | 2011-01-27 00:00 | etc

俳句と女性性に関するメモ

神野紗希 木曜日と冷蔵庫 俳句にまつわる女性性の問題

五十嵐秀彦 女性性の問題? 無門日記



神野さんの記事のモヤモヤへの指摘は、五十嵐さんの記事で十全。

(いままったく関係のないことを思った。俳句では「下の名前」で呼ぶのが一般的だったはずなのに、その伝統は薄らいでいる。私も「紗希さん」「秀彦さん」と書かなかった)

ひとつには、称揚したいものがまずあって、その露払いとして、批評の対象(今回は『超新撰21』の諸作品があるという作りに読めてしまうところ、同時に、批評対象へのマイナス評価のために、過去の句を対照させていると受け取れてしまうところが、紗希さんの記事の狡さ。それはそれでいいが、女性性の現れ方(表現?)の「称揚すべき」とされる昭和30年代生まれ女性作者の、どの句もピンとこない私などは、最後まで読んで「ありゃま。で、これかいな」ということにも。



もうひとつには、『新撰21』や『超新撰21』といったアンソロジーが、ないはずの文脈や関連を呼び寄せてしまうのかもしれない、ということ。これは最近ちょっと強く思っている。

例えば、(上記・神野さん記事に沿えば)、柴田千晶さんと小沢麻結さんとが並置されて論じられることは、おそらく『超新撰21』がなかったら、なかっただろう。それはそれでいいが、「同じ本に入っている」「どちらも女性作者である」という以外に、並置する根拠や必然性があるのかというと、どうも、そのへん薄い。

アンソロジーが批評において入集複数作者の並置を招くというのは、いっけん自然なことのようでいて、ちょっと考えてみると、そうでもない。

ヘンなたとえかもしれないが、日本文学全集の第56巻の作家と第57巻の作家とは、並置され関連づけて読まれることに意味があるかもしれないし、ないかもしれない。



一方、

外山一機 「ファリック・マザー」の系譜―種田スガルの俳句について

…のような、作者をクライアント(患者・被験者)として扱うかのような「分析」もあります。こうなると、俳句というテクストは、文芸の脈絡よりも、告白の様相を帯びる(演じるという層を見出すにせよ)。

文芸作品そのものよりも、それを批評の枠組みにはめ込むことに興趣を感じるタイプの人には、こうしたとらえ方がおもしろいのかもしれません。

いわば、批評のための作品? 批評に供する作品?

これって倒錯、と私などは思ってしまう。まず作品があると思うので。例えばファリック・マザーの存在が読み取れることと、その文芸を読むおもしろさとは、まったく別の階(別のフロア)にあるとするタイプです。なにかの概念が見出せたとしても、それはそれで結構なことだが、だから作品がおもしろい、だからもっとおもしろくなる、ということにはならない。



簡単に言えば、俳句には〔私=女性〕がはっきりとわかる書き方(詠み方)がたしかにあって、そこは例によって男女非対称。「俳句における〔男性性〕の問題」なんて論考は、あるのだろうけど(可能なのだろうけど)、あまり目にしない気がする。

で、『超新撰21』には、〔私=女性〕が、ある種典型的に「性的な」現れる作家が明確に見出せて(種田スガル、柴田千晶)、このあたりをさして〔私性〕の表現が「ナイーヴ」と指摘する人がいるのだろう(例:湊圭史さん
「私性」の表現に関して、ナイーブな表現者が多いのが意外な気がした。特に、女性作家の演技や誇張も含めた自己開示の傾向は、正直言って古臭い印象をもった。俳句界で少し前に大西泰世氏の川柳がもてはやされたことがあったようだし、昨年は鈴木しづ子の俳句(「夏みかん酸っぱしいまさら純潔など」)がいまさらながら話題になったような気もする。「私」の表現に関しては、俳句のほうが素朴な表現にまだ驚く向きがまだ残っていそうである。


まったくの好みの問題を言ってもしかたがないが、いわゆる「女性らしい俳句」というのが、私自身はおおむね苦手で、だから、あまり良い読者ではない。

女性俳句における性的な身ぶりよりも、コケトリな身ぶりのほうに、このところ興味があるので(そのほうがむしろバリバリにオヤジ的な読み、それこそファリッックな読みかも)、よくある俳句と「女性性」の論議からは、ちょっと離れたところにいる感。

だから、これは、メモ的扱い。(のわりに長い。資料的まとめ、と呼んでいただいてさしつかえない)



で、最後の補足が、自分にとっていちばん重要だったりするのですが、私、東京事変のアルバム、大好き。それはバンドの音がいいから(アレンジや演奏ね)。

それに乗っかるボーカリスト(椎名林檎)の歌唱もいい。でも、その「女性性」うんぬんについてはよくわかりません。

ところが、東京事変が好き、と言うとき、「バンドの音が」という但し書きをつけないといけないようで、すごく邪魔くさい。それもこれも、椎名林檎にまつわる「セクシャルな意味」のせい。



しかし、長いな。メモってわりに。




[PR]
by tenki00 | 2011-01-26 19:30 | haiku

頻度は大事

…だと思います。

どんな頻度にするか、悩み、検討する。


「はがきハイク」という世界最小(?)俳誌は、忘れた頃に届くので、「あ、まだやってるんだ」「もう送ってこないのだろう」と思っている人も多いようですが、あれ、いちおう、3カ月に一度、つまり季刊です(っていっても変更はあるでしょうが、いまのところ)。

「はがきハイク」を始めるとき、相方の六番町姐さんと、「どのくらいのペースにする?」という話になりました。おたがい、ううむと考え込んだあと、「こんなものを毎月送ってこられてもなあ」という点で意見が一致し、「それに、月一じゃあ、こっちも、もたない」。

結果、「3カ月にいっぺん、くらい?」「そうだね」ということになりました。



週刊俳句」は、俳人のみなさんから、よく、「毎週は大変でしょう?」と言われます。

でも、これ、週刊だから続けられた、続けられる。例えば、月刊だと、絶対に続かないでしょう。リリース日を忘れてしまう可能性もあるし、覚えていたら覚えていたで、相応の準備をするでしょうから、負荷が大きい。

週刊は、「次を忘れない」頻度、かつ、「周到な準備なんてしていられない」頻度です。これだから、続く。

例えば、当番の4人は「記事が1本でもいいや」と思っているから、負荷がなく、気軽(実際には1本だった号は、まだありません)。月刊だと、記事1本というわけにも、まあ、行きませんわね?

他方、ウラハイのようにデイリーだと、これはちょっとウェブマガジンという感じではない。ストックさえしておけば正午に勝手に自動更新してくれますから、週刊よりも楽は楽ですが、これだとマガジンというよりブログです。雑誌(マガジン)=雑多な記事の集合、というのは、やっぱり、独特の楽しさがあるものなのです(読むほうも、そうじゃないですか?)。

「週刊俳句」にはいくつかの特徴、いくつかの持続要因がありますが、その最大のものは「週刊」であること、だと思っています。

スタート当初、そこらへん、いまほどはっきり見えていたわけではありませんが、名称に「週刊」を冠したは、最大の特徴を単純明快に伝えるという意味で、大成功だったのかも、です。




[PR]
by tenki00 | 2011-01-25 00:30 | haiku

釣る人

週俳・第186号のトップ写真。

d0022722_0431277.jpg


新潟の海。

青いバケツが、私にとって「写真のキモ」。




[PR]
by tenki00 | 2011-01-21 13:00 | sampo

俳句の内部

このまえの記事で引いた小野裕三さんの一文の一部を再度。

貪欲にJ-POPという外部へ言葉を求めたことの主語は「俳句」であり、俳歴三ヶ月の新人という外部に才能の光を求めたことの主語は「俳句」である。「俳句」が内に孕む衝動のようなものが、動いた結果でしかないのだ。
プロブレマティックな一冊~『超新撰21』をめぐって:「俳句樹」第8号

「俳句」という主語の置き方はロマンチックで、人を議論に突き動かす力があります。「俳句」という主語でいいのかどうか、私自身の見解は保留としておきます。

「俳句」が内に孕む衝動」と言ってしまうと、山田露結さんが言うように、それは「必然」ということかもしれません。どうなんでしょう。そうなのかどうかも保留。

ただ、しかし、俳句/俳句世間に「外部」を求める傾きがある、とは言えるようです。

ある人たちは、こんなことを思うのでしょう。

……俳句は、その内部では、なかなか更新されていかない。俳句村の内部では、俳句をつくるのがルーティンのようになってしまい、読者は、村のなかにしかいない。否、俳句はろくに読まれることもない。句会に慣れすぎた俳人/俳句愛好者は、自分の句を読んでもらうかわりに他人の句を読む、という互酬性の輪から出ることがない。

きょう俳句が、きのうと同じように量産されることに飽き飽きしてしまったという人が多いのでしょう。で、「これまで見たこともない俳句」のヒントが、俳句の外部にあるんじゃないか、と。俳句の外からやってくる新参者が、新鮮な驚きをもたらしてくれるのではなかろうか、と。

そういう心性、自分がやっていることに飽き飽きしてしまった人の心性は、なんとなく理解できます。

でも、その半面、俳句村での自分の立場や存在感を気にかけていたりする。

俳句の「内部」と「外部」。ううむ、なんだか、そそられない話題です。(なのに、書いてる)




[PR]
by tenki00 | 2011-01-20 19:00 | haiku