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ヨ・ラ・テンゴ2009年アルバム

いま現役のバンドでいちばん好きかもしれないヨ・ラ・テンゴの2009年新譜を今頃になって購入(いちばん好きというわりには、ねえ。でも、こうなっちまっています。新譜の発売と同時に入手なんてことはなくなっている。

「POPULAR SONGS」というだけあって、もじり度(引用度)がきわめて高い。まだ1回通して聴いただけですが、わたし的ベストの「I Am Not Afraid of You and I Will Beat Your Ass」(2006)を上回る感じはないです。

ちょっと前の記事でも上げたアルバム6曲目(↓↓↓)。この、腰の入ってない感じ。ピースフルな空気に妙な多幸感が混じるこの感じ。安っぽいストリングス。文句なしに大好きなので困ってしまいます。



音楽全般(とりわけポップ・ミュージック)は、「引用」が主成分。「まるっきり新しい」では、音楽にはならない。「まるっきり新しい言語」では誰にも通じないので、言語にならないのと同じ。

かといって、「新しいところがまったくない」のでは、わざわざ聴く必要もない。

このあたりは俳句も同じ、かも。
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by tenki00 | 2010-05-30 09:00 | pastime

ダルとムネリン

ダルビッシュ(日ハム)と川崎(ダイエー)がネット上で会話をかわす。

http://nearmetter.com/faridyu/KawasakMunenori

こういうのは、ツイッターならでは、なのだろう。なんか、おもしろい。
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by tenki00 | 2010-05-29 20:45 | pastime

くにたち句会5月のお知らせ

5月30日(日) 14:00 JR国立駅集合

句会場キャットフィッシュ に直接でも結構です。
席題10題前後

今回は拙宅での披講・飲食はナシ。二次会は国立駅前あたりの飲み屋です。

どなたさまもお気軽にどうぞ。
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by tenki00 | 2010-05-26 00:47

「未踏」論争の外で

高柳克弘の句集『未踏』および「ヘウレーカ」100句(『新撰21』所収)にまつわる論争に、山口優夢がカブせて書いている(週刊俳句・第161号)。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/05/21208.html

さて、枝葉末節に属することだが、上記句集の第一句に「ことごとく未踏なりけり冬の星」を置く「覚悟」そのものには、あまり好ましい反応を持てない。ひとつには、あまりに若々しく生硬で、こんなにも直截的に力みを伝えられても、というところがある。読者は、作り手のがんばりを読んで、肩入れするというものではないし。

くだけていえば、この句、オツではないのだ。粋ではないのだ。明瞭で、わかりやすいという美点はあるが、それが大きな魅力につながっているのかどうか、ちょっと私にはわからない。

ただし、句集を読み進めれば、句集のスタート時点でこのように宣言してしまうことの気恥ずかしさのようなものに、作り手の高柳自身がきわめて自覚的なことがわかるので、一種の醒めた演出として捉えることもできる。句集に収められた小川軽舟の一文に助けられる部分も大きいのだが、つまり、高柳には、第一句集の多くの部分を「若書き」として捨て去る(自分との距離を置く)用意がすでにある。それほど遠くもない未来に、「ああ、初学の頃にはこんな肩に力の入った句もつくりましたね」と笑いながら振り返る用意をもって、第一句集が私たちに披瀝されている。

若書きは、中途半端な作家にとってはイタい過去、暗黒史、汚点であっても、大作家は、さにあらず。若書きが大作家のひとつの要素ともなる。

だから、自分の好みから言えば、「なに、この気張りようは」という「ことごとく未踏なりけり冬の星」ではあっても、それがここに置かれることを認めてしまう。作り手である高柳克弘が、そうと決めたのだから、それも何もわかっちゃおらずに決めたわけではなく、諸々の反応を予知、承知のうえで決めたことにちがいなから、それを大きな疵とは見ない(正面から褒め称えちゃう人たちは、どうかと思うが)。

ともかく、このさき長く、いろいろ楽しませてくれる作家だろうという確信はもったのだ。あの『未踏』を読み、ほかの作品に触れるたびに。

だからというか、ちなみにというか、句集『未踏』で私が楽しむのは、巻頭の冬星の句でも、いくつか(これも確信犯的な)「青春の恋」な俳句でもない。このことはすでに書いた(過去記事↓↓↓参照)「まつしろに花のごとくに蛆湧ける」「梟や生きゐて嵩む電気代」といった奇妙な味の句だ。

【過去記事】
≫蛆の花
http://sevendays-a-week.blogspot.com/2009/05/blog-post_25.html
≫いわゆる光熱費 高柳克弘句集『未踏』
http://sevendays-a-week.blogspot.com/2009/07/blog-post_09.html

この記事の冒頭に、枝葉末節に属することと書いたが、そのとおり、自分の好みを言ったにすぎず、どこかで繰り返し交わされるはずの本質的な議論には遠い。


高柳克弘「眠れる子」10句:週刊俳句第122号
さいばら天気 週俳8月の俳句を読む
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by tenki00 | 2010-05-23 10:10 | haiku

インナースリーブ

ビニールレコードの内袋。ただ白いだけのものも多かったように思うが。



アップルレコード(ビートルズ)は黒。あれはあれで、なかなかでした。
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by tenki00 | 2010-05-21 00:30 | pastime

鴇田智哉の無季22句

鴇田智哉が無季ばかりの「降るむかし」22句を発表。大きな話題になってもよさそうだが、私の知る範囲では、そうでもない。定期講読のみの『俳句研究』誌上だからか。

  風下にうすい瞼はありにけり  鴇田智哉
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by tenki00 | 2010-05-20 09:47 | haiku

陳腐・凡庸はどこで生まれるのか

ちょっと昔の話。

週刊俳句・先週号(第158号)「もうひとつの(というか まったく別の)鶏頭論争 『俳句』2010年5月号を読む」で、高柳克弘さんの「現代俳句の挑戦17 川崎展宏のイノセンス」を取り上げ、「「燃えるような夕焼け」「薔薇のように美しい人」などのように、比喩は日常言語で広く使われている分(日常で言うか?こんなこと:引用者)、詩語としての新鮮さを失っている。(…)比喩が現 在の俳壇で避けられているということは、逆説的に、それだけ陳腐な発想や表現が横行している、という状況を 物語っている。」と引用したわけですが、そこでわざわざ「日常で言うか?こんなこと」と、どうでもいい枝葉のことにツッコミを入れたのは、陳腐・凡庸は、むしろ詩語においてこそ生まれるということが言いたかったわけです。

「燃えるような夕焼け」「薔薇のように美しい人」と いった(例が極端ですが)比喩の陳腐・凡庸は、日常にはまず登場しません。起源も運用も、詩(俳句も含めて)の世界の出来事なのです。あるいは安物のドラマ だけの出来事。

比喩は、日常的に使用されて擦り切れるのではなく、詩語の世界で擦り切れる。

日常語と詩語は、それぞれ別の在り方(文法・秩序・運用・読まれ方…)をしていますから、上下があるわけではないのですが、詩/俳句にかかわっている人に は、なんとなく、〔詩語>日常語〕という意識があるようにも思えます。でも、実際には違うのですね。

日常ではほとんど口にされることのない恥ずかしい陳腐・凡庸が、詩/俳句では、しばしば臆面もなく作品中に現れてしまう。これは当の作り手(俳人)は、 ひょっとしたら気づいていないのかもしれません(私も含めて)。
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by tenki00 | 2010-05-19 23:00 | haiku

江戸川

週刊俳句第159号・後記に貼った「Edo River」、スタジオライブと並べて、再貼り。




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by tenki00 | 2010-05-14 21:41 | pastime

「金を返せ」とは思わなかったです

2ちゃんねるユーザーが「金を返して欲しい」と思った映画

いろいろ並んでいる。このなかで観たのは、

『THIS IS IT』(劇場)…マイケル・ジャクソンのファンじゃないけど、とても楽しんだ。

『ハートロッカー』(劇場)…とてもよかった。絵も音もびしっと作ってある。

『バーン アフター リーディング』(DVD)…大好きなコーエン兄弟の並みの出来。じゅうぶん楽しんだ。

わりあいに、スカは引いてない。
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by tenki00 | 2010-05-11 19:18 | pastime

新潟の話

宗左近俳句大賞というものがあって、これは「雪梁舎俳句まつり」なるイベントの一環だそうだ。その選考会の模様が詳細にレポートされている。≫関悦史・宗左近俳句大賞公開選考会レポート、または『新撰21』はいかにしてほぼ決まっていた「特別賞」を逃したか

加藤かな文さんの句集「家」を、「「加藤かな・文句集」と読んで、句と文一緒なのか」と思うだけならまだしも、公言しちゃう司会者(新潟の「文芸評論家」とある)の進行の下、なかなかコクのある討議が展開した、というのは、冗談で(すみません)、「ああ、こう決まっていくのか」という話の路線というか筋道がとても見えにくく、しかし、まあ、選考というのは、こんなものかもしれない。レポート自体はとても面白いので、ぜひ一読を。

その関悦史さんは、一般投句の部の最高賞「雪梁舎賞」に決まった「虹色に濡れて海市から来たという」という句の講評もレポート。ウラハイに載っている。≫兜太から九堂夜想への講評 「雪梁舎俳句まつり」余聞

作者は九堂夜想さん。『新撰21』で100句が読め、私も拝読した。いわゆる難解、前衛と呼んでいい句群、詠嘆的な口調は迫力があり、読む楽しみを味わわせていただいた。

でも、この「虹色に濡れて海市から来たという」という句には、まったく魅力がない。

1)海市(蜃気楼)からヘンなもの・不思議なものがやってくるというネタの擦り切れ感
2)虹色というの歌謡曲フレーズ(歌謡曲が悪いのではありません)
3)モタモタとして、韻律がない(引用が正確であるとの前提。字余りが必ずしも悪いとは思っていません)

『新撰21』で知った九堂夜想さんからすると、あれれ?な句です。

選考メンバーは、句集を選ぶ「宗左近俳句大賞」と同じなのか別なのか知らない(金子兜太は「このくらいでちょうど良いんですよ。」との評言を残している)。この句を高く評価する人がいたということなのだが、そうゆう選考メンバーって、いったい、どーなんでしょう?というのが、一俳句愛好家たる私の感想。

賞は賞であって、賞に過ぎないんだな、と。

さてところで、『新撰21』100句についてのTwitter読書会が、土曜夜に開催されてます(毎週ではないようです)。≫お知らせ

この九堂夜想さんの回は、中村さんのコメントにありますように、秋頃。私の土曜夜は、帰宅が深夜だったり「週刊俳句」のアップ準備だったりで、なかなか参加できませんが、皆様、ぜひどうぞ、ご参加を。



九堂夜想さんの「アラベスク」100句から、好きな句を挙げておきます。

吊るされて切り岸を呼ぶピアノかな  ※これはきっとたくさんの人が選ぶでしょう
みずうみを奏でる断頭台なれや
孔雀大虐殺百科辞書以前
ひらめける手の忘却をかものはし
とおく来し青黴乾酪(ブルーチーズ)の斜立ちや

付言するに、全体に1960~70年代っぽさ(曖昧な言い方!)、ある種のアナクロニズムも感じる。というと、否定的にばかり受け取る向きが多いが、そうではない。それが悪いことだと私は思わない。妙な譬えになりますが、また、Jポップ(笑)というものをあまり知らないのですが、ひところ人気を博した「スーパーフライ」という女性ボーカルも、最近解散したらしい「ゆらゆら帝国」というバンドも、1960~70年代の「現在パフォーマンス」ですし。
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by tenki00 | 2010-05-07 09:48 | haiku