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俳句漫遊記116 干満

飛行機のちひさくひかり汐干狩  中嶋憲武

明るくて、何かが胸に満ちてきて、引いていく。ああなんと哀しい。

この句、100回は泣ける。私の宝物だな。


週刊俳句第27号「落選展」所収・「夜濯50句」より
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by tenki00 | 2007-10-31 18:39 | haiku-manyuuki

「落選展」はどうおもしろいのか?(1)

しゅうTん:ここまでやってしまっていいのか?

仁:いいんだよ。

T気:いや、ダメでしょ。

仁:なんでもいいよ。

T気:絶対、ダメだと思うw


週刊俳句第27号
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by tenki00 | 2007-10-30 23:41 | haiku

「落選展」はどうおもしろいのか?(イントロ)

落選展掲載の週刊俳句第27号、リリース日の昨日が約3000アクセス、今日が2000アクセス。「週刊俳句賞」発表号の1日目はたしか1万アクセスくらいだったから、そこまでではないにしても、それに次ぐアクセスの伸び。関心は高いらしい。

ただし、俳句世間で、「角川俳句賞」がそれほど関心を集めているかというと、思っていたほどではないことが、実際に句友と話していると、わかる。存在はなんとなく知っていても関心はないという人が多い。思い出してみれば、数年前までは私もそうだった。応募した人は当然ながら、その結果に高い関心を寄せるが、そうでない人はそれほどでもない。俳句世間全体の事象に広くを目を配らなくても、俳句は遊べる。

今回の落選展は、しかし、角川俳句賞そのもの注目度のいかん、また週俳の「落選展」の注目度のいかんとは別に、決定的に「おもしろい」のだ。運営側の人間がこんなことを言うのは奇妙かもしれないが、第27号が出てみて、はっきりとわかった。

どうおもしろいのか。

それは、またそのうち書くとして(もったいぶるほど特別なことではない。読者の多くが気づいていることだ)、この「落選展」が、じつは第2回で、元祖オリジナルの第1回はハイクマシーンによるものであることを、ここでも念を押して申し上げておきたい。

昨年、私は、ハイクマシーンの「落選展」を遠くから「ふうん」といった感じで眺めていただけで、不覚にも、その「おもしろさ」に気づかなかった。ハイクマシーンのどなたか知らないが、えらいことを思いついたものだ。ハイクマシーンは、落選展の創始者として、長らくその名を俳句世間にとどめるかもしれない。
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by tenki00 | 2007-10-29 22:44 | haiku

おこめけん

『俳句研究』(富士見書房)の表4(裏表紙)を長く飾ってきた「おこめ券」、このたび『俳句』(角川学芸出版)の表4へ。引越。

わが家はこれから、きりたんぽ鍋ざんす。
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by tenki00 | 2007-10-29 18:59 | haiku

秋霖

あした↓も雨かな?
http://tenki00.exblog.jp/6413209/

散歩にちょうどいいくらいの降りだといいいんだが。
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by tenki00 | 2007-10-27 13:22 | haiku

内藤ルネ死去

修善寺の「内藤ルネ人形美術館」に行ったのはいつだったかのお正月。
そのとき撮った写真(ポジ)↓
d0022722_1454650.jpg














参考http://shadow-city.blogzine.jp/net/2007/10/post_f1fa.html
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by tenki00 | 2007-10-26 01:44 | pastime

なんとキュートな!

週俳のmp2。金曜土曜の48時間、オードリー・ヘップバーン讃のムーン・リバー。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/web-20-machine-is-using-us.html


必見。
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by tenki00 | 2007-10-25 23:47 | pastime

『俳句』11月号

昼ごはんのついでに『俳句』11月号を購入。
角川俳句賞のページをめくる。

ふむふむ。なかなか興味深い。

『週刊俳句』の落選展まで、あと50時間ほど。
読者はいろんな楽しみ方ができそう。
ことし週俳でやることにした落選展、当初予想したよりはるかに興味深いイベントになること必至。
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by tenki00 | 2007-10-25 22:17 | haiku

「高浜虚子を読む」がおもしろい(3)

週刊俳句第24号・俳句と詩の会 「高浜虚子を読む」を読む、の第3回。
二階に上がるということ(上田信治)の続き。

承前→この記事


信治さんは斯く語る(ちょっと長いけど引用)。

日常語というのは、話者が、言葉で、先行する指示対象を、指すように言うものです。指示対象に言葉が遅れて現われる、というのが日常語で、言いたいことを言うために、言葉を探す。それは、ものを書くときも同じです。

ところが、あまりにぴったりと過不足無しに言えた言葉というのは、受け手から見ると、その遅れをまぬがれているように、つまり、言葉と指示対象が、同時に出現したように見えるんです。

そうすると、それだけで、言葉が「詩語」として立つんですよ。言葉が「もの化」する、なんてよく言いますが、小さな時間の彫刻のようなものができあがる。


この部分、俳句のことを言いながら、表現一般に敷衍できるようで、示唆に富む。

言い換えれば、表現しようとすることばは、対象に向かって、いかに効率的に迅速に巧妙に迫ろうが、対象にすこし遅れてしまう。漸近線は、限りなく近づくが、ひとつにはならない。

そのとき、道具としてのことばがみごとに駆使されたという意味で賞賛はされるが、芸術(とあえて言ってしまう)のオーラは生じない。ことばが、実用の域を出ないうちは、オーラが備わることはない。

ことばは乗り物(vehicle)に譬えられる。意味を運ぶもの。そのだんで行くと、あなたや私が、町で見かけたスポーツカーにほれぼれするその瞬間、私たちは、そのクルマが何をどのくらいのスピードでどこまで運べるのかといった実用に思いを到らせるのではない。ひと目見て、その存在そのものに惚れるのだ(その流線型、塗装のなんとも言えぬ色合と肌理、オープンカーなら革シートのへたり具合等々)。

こうした事情は、ことばの事情だけではない。例えば、写真が媒体(何かの像を映し出す)であることをやめて、1枚の写真そのものとして存在するとき、そこにはオーラが宿る(ロラン・バルト『明るい部屋』にもそんな話があったような憶えが……嗚呼うろ憶え)。

もちろん、俳句の場合、ゲイジツもオーラも要りません、あたしゃ「ザブトン1枚!」とゆってもらえる句が捻れりゃ本望ざんす、という態度ももちろんアリとして、そういう範囲に収まってくれない句の話。ザブトン1枚句と、なんともいえぬオーラを発する句が、同じ俳句の顔をして隣り合わせで坐っているところが、俳句の面白さといえば面白さ。

いや、そんな〆ではなく、話をもっと発展させなくてはならないのだ。つまり、俳句が意味を運ぶ乗り物、伝達のための道具であることをやめるとき(というのは、「完遂して、やめる」というふうにも言えるのだが→「あまりにぴったりと過不足無しに言えた言葉」;信治さん)、俳句は、ひとかたまりのブツとなって、固有の質量・肌理・匂いをもつ。言い換えれば、具体性ではなく具体を獲得する。

ことば(指示)がモノやらコト(指示対象)に毫も遅れることなく重なり合い同一化する瞬間。俳句に限らず、その瞬間を見届けることこそ、読む快楽なのだ。

というようなことざんす。

(つづく、かも)
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by tenki00 | 2007-10-23 20:01 | haiku

恐ろしい統計

敬愚(robin d. gill)さんの書き込みで知った。
http://6801.teacup.com/furiko/bbs?BD=12&CH=5&M=ORM&CID=2757

日本の1年間の英文翻訳刊行物1,523点のうち606点(約4割)はハーレクイン・ロマンスだとか。

ううむ。そんなに多いのか。


元ネタはコレ?
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by tenki00 | 2007-10-22 23:02 | pastime