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俳句図鑑05 豚

d0022722_3311516.gif炎天を遠く遠く来て豚の前  西東三鬼
蟻とならんか豚とならんか豚見てをり  加藤秋邨
天つつぬけに木犀と豚にほふ  飯田龍太
村ぢゆうの障子が白し豚を飼ふ  木村蕪城
大花白豚(はくとん)歩いてゆくぜ白鳥だぜ  金子兜太
リモコンと豚のくるまる毛布かな  二輪通
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by tenki00 | 2007-03-30 22:20 | hai-zukan

俳句図鑑04 考える

d0022722_2484228.gifねむれずに象のしわなど考へる  阿部青鞋
守宮出て全身をもて考へる  加藤楸邨
秋風の考へ止めしごとく止む  加倉井秋を
むつかしく考へてゐる糸瓜かな 小川軽舟
ぶらんこに乗つて助役は考へる  夏井いつき
考へてをらない蝌蚪の頭かな  後藤比奈夫
考えていると年寄る片時雨  池田澄子
ふくろふを頭にのせて考へる   吉田悦花
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by tenki00 | 2007-03-28 13:30 | hai-zukan

俳句図鑑03 仏壇

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仏壇の菓子うつくしき冬至かな  正岡子規
仏壇に尻を向けたる団扇かな  夏目漱石
仏壇に先祖こみあふ涼しさよ  長谷川双魚
仏壇の秋暑の扉開けてあり  斉藤美規
仏壇に実梅の青の十ばかり  毛呂刀太郎
仏壇に西瓜一個は多すぎる  雪我狂流
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by tenki00 | 2007-03-26 23:23 | hai-zukan

呉羽化学

句に固有名詞を盛り込むことを嫌う、あるいは窘める傾向は強い。嫌われ窘められると、やってみたくなる。これ、当然。

固有名詞にもいろいろある。人名、地名、それから企業名。

  カンナ愛づ呉羽化学に咲くを愛づ  てんき

地名は、動かなければいけないそうだ。信治さんによれば、ね。企業名は、どうなのだろう。呉羽化学は限りなく動きそうだ。六音企業すべてOK(字余り・字足らずを許すなら、すべての企業名がOK)。さらにはカンナ(季語)も限りなく動く。

すると、「愛づ」しか残らない。

けれども、「愛づ」しか残らないことが、作者の私にとっては、このうえなく上等、ということも言えたりするのだ。

で、さらには、「愛づ」も何かを言っているわけではない。句のなかの「愛する」とか「見る」といった語は、あらかじめ句に含まれている作用なのだから(句にしてるんだから、そりゃあもう、見ているんだし、愛しているのだ)、この「愛づ」も消えてなくなる。

すると、何も残らない。

ところが、だ。何も残らず、ぜんぶ消えてなくなった、この状態、作者である私にとっては、それこそが本懐だったりする。

ひとつには、表現の必然によって構成された、いわゆるよくできた句、読む人を唸らせる句は、どこかにいるはずの俳句の上手な人が詠めばいいのだから。

それと、もうひとつ。「何か」を句にするとき、「なぜそんな句(措辞・表現)になるのか」に必然を見出せない、なんていう事態は、ちょっとオツだったりもする。「何か」と作者(である私)をつなぐもの、それを世界は「愛」と呼ぶんだが(古い)、その愛について、説明ができるというのはつまらない。愛する理由についてまったく説明ができない、という状態こそが、私の望み、だったりする。

「なぜ、そんなものを見たのか?」
「たまたま」
「なぜ、そんなものが好きになったのか?」
「たまたま」

ここで、先に挙げた信治さんの記事に戻った感じ? アプローチは違うけど。
(…)まず人間は「偶然」ではなく「偶然」の模型をつくることで、満足しなければならないのかもしれない。

翻れば、舫(もやい)を解くということ。語と語の舫。現実と言葉の舫。それは、表現の必然性という一般には称揚される「舫」を解くということにもなる。

うまく言えている句、って、ちょっと窮屈ですよね。それと、ちょっとダサい。

そんな感じ。

って、固有名詞の話から、ずいぶんと逸れてしまったざんす。
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by tenki00 | 2007-03-24 21:39 | haiku

俳句図鑑02 愛

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乾草匂う夜目にも愛の自転車立て  鈴木六林男
丘の上に李あり愛の日の君も  金子兜太
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし  三橋鷹女
ひとの愛うたがはずセル着たりけり  安住 敦
愛をもて編みしジヤケツのかく痒し  鷹羽狩行
植物園に棒立ちの愛まっさおな  八木三日女
雨のノエルの愛とか自律神経とか  池田澄子
凩や愛の終わりのカツカレー   長谷川 裕
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by tenki00 | 2007-03-23 23:58 | hai-zukan

俳句図鑑01 魔法瓶

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春昼や魔法のきかぬ魔法壜   安住 敦
春昼やひとり声出す魔法壜   鷹羽狩行
桃節句湯気と湯の出る魔法瓶   山畑禄郎
母の墓にて覗く魔法瓶の内部   上月章
魔法瓶抱きて火事の火を逃ぐる   皆吉司
湯ざましが出る元日の魔法瓶   池田澄子
黒南風や生まれも育ちも魔法瓶   佐山哲郎
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by tenki00 | 2007-03-20 22:00 | hai-zukan

俳句に似ているもの。その四。

俳句に似ているもの。

大島弓子「バナナブレッドのプディング」の冒頭。



姉が あした 結婚するんです
そして わたしが インスタントコーヒーになってしまう日でもあるんです

バナナブレッドのプディングを たべたいと思ってます

(その象徴的なプディングとは なにものなのでしょうか)

先日 雑誌で 見たんです 
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by tenki00 | 2007-03-18 12:09 | haiku

俳句とインターネット

『俳句界』07年3月号の特集「俳句、インターネット時代の功罪」を読んだ、その続き。

14の論考のうちひとつを、前エントリーで紹介させていただいた。他も読んだが、取り上げるようなものはない。徹底的にどーでもいい記事が13個並んでいる。

いくつかの記事では、既存句のデータベース化の提案があった。これは大昔から頻繁に話題にのぼることなわけだが、感想はひとつ。「言うんなら、おめえがやれよ」

いや、ぞんざいな口の利き方をしてしまった。反省。「ご自分で構築なすってはいかがでしょう。あるいは、どこかをつっついて動かすとか」

提案だけが繰り返されて、実現に向かう気配がいっこうにないことは、ほかにもあるからいいとして、インターネットという無料(あるいは安価)で広大なストレージ(倉庫)に、電子データとして、俳句コンテンツを格納するというのも、ま、便利かもしれない。

言い換えれば、俳句にまつわる情報をストックと捉え、インターネット(コンピュータと通信網)という新機能を大いに利用しようという発想だ。

もちろんそうした考え方は理解できるのだが、私の気持ちとしては、むしろ、フローな情報であってほしい。ネット上に書き込んだデータ、アップロードしたデータは、「なんで残るんだ? うっとうしい」というのが、私の感情。

適当に消えてなくなるメモ、あるいはそれこそ秀彦さんが言うような(前エントリ)やがて消えていく(消されていく)落書であるほうが、よほどすがすがしい。

ところが、インターネットというのは、巨大なメモ帳、巨大な壁なのではない。くちゃくちゃの巨大なナイロンタワシである。それに触れたデータは、どこかわからぬ箇所へと染み込んでいく。つまり、データは、使い手の意に反して、残る。これは、例えばBBSやブログの「削除」ボタンを押したとしても同様。どうしたって、残ってしまうのだ。

印刷物に活字として定着した句とインターネット上に書き散らかされた俳句。どちらが物理的に長く残るかについて、疑いなく前者と答える人が多いかもしれない。ところがそうとも言い切れない。本・雑誌が朽ちて風化してしまうような遠い未来にも、インターネット上に気軽に書き込んだ落書は、そのままどこかに残っている可能性がある。

つまり、いま書いている駄文も、そんな運命にある。

怖い。

だから、気持ちだけでも私は、ストックの側面から目をそむけ、フローへと視線を注ぐ。だから、インターネット上に俳句データベースを、と提言する人の気持ちが知れないのだ。
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by tenki00 | 2007-03-16 12:45 | haiku

俳句とメディア

『俳句界』07年3月号の特集「俳句、インターネット時代の功罪」を読んだ。「また、功罪かよ!」と言ってはいけない。ここはインターネットなんだし、俳人さんたちが、インターネットについて何を考えているかには多少の関心がある。

まず私自身の立場表明、なんて不要かもしれないが、ともかく、しておくと、「インターネットは便利」というくらいのスタンス。利便性着目・ツール限定志向といってもいい。つまり、インターネット上で俳句を遊んではいるが、ツールに過ぎないという考え。すこし付け加えるなら、「うまく使えば便利。うまく使うのは意外にむずかしい」という把握だ。

さて、特集はアンケート結果記事掲載のあと、14氏の14の論考が掲載されている。その最初の記事が五十嵐秀彦「開かれた書物、堕胎された言語」(*1)。俳句とインターネットを論じるなら、そりゃメディア論でしょ、という前提から入るこの記事、興味深い部分が多かった。
※以下、引用以外は私の記述になっている。原典を忠実に再現しているのではないので、そのへんよろしく。

新しいメディアを論じるとき、それは同時に旧メディア(活字メディア)照射することにもなる指摘は妥当なものだ。そうだとすれば、例えば「インターネットの功罪」といったテーマを俳誌がとりあげるとき、既成のメディア、すなわち俳誌の「功罪」もまた照らし出されることになる。ここのところは、なかなか趣向のある、かつ戦略的な仕掛け。

さて当該論考の内容。まずは、俳句と活字メディアの関係が、次のように位置付けられる。

皮肉な言い方をすれば、俳人は自分たちの自己顕示欲を正当化してくれるメディアとして活字媒体を自分たちに都合のよい「権威」としてきた。(五十嵐秀彦「開かれた書物、堕胎された言語」・以下青字は同)

いわゆる「(自分の書いたものが)活字になる」というセリフにこめられた、一種の矜持・誇らしさは、この一世紀ほどのあいだ、変わらずに存在した。新聞投稿欄、刊行物への寄稿、さらには著作。いずれも活字に権威になんらか依拠しての営為である。そして俳句の場合、権威付けは、さらにシステム的なものとなる。

明治以降の出版文化発展のめざましさと、高濱虚子が結社組織の中心に結社誌主宰選を据えて以来、俳誌というメディアに活字化されることが多くの俳人の目標と化した。その中で座がどうかすると出版媒体に従属するかのような存在に変わり、それが俳句の近代化、いいかえれば文学化でもあったと言えるかもしれない。

上の引用のうち、前半はすでに一般化した把握でもあるが、きちんと押さえておくことは大事。さらに後半部分、「座」への言及はきわめて示唆的。なるほど「座」の、出版媒体への従属。このあたりは、また別の機会にゆっくり考えてみたい。

話を戻す。では、一方のインターネットというメディアにおける俳句とはなんだろう。ここで寺山修司「落書学」が援用される。落書の受け皿としての「簡便・自由なメディア」、かつての都会の公衆便所や横丁の壁が、いまインターネットであると、五十嵐(著者敬称略・以下同)はいう。

(…トイレットの空間が)ネットという空間に置き換えられていること、そして、そこが「開かれた書物」であり、「話させてくれ、もっと。書かせてくれ、もっと」という欲望にあふれていることに私は気付かざるをえない。ネットというメディアに対して持つ、ある種のいかがわしさの原因がここにあるのではないか。

「権威」を拠り所にする活字メディアとの対照において、インターネットの俳句は「非・権威」と位置付けられるが、それがどんな価値を持つかについては保留とされている。「天使の武器か、悪魔の武器か」についての回答は示されないが、ここに不満は生じない。結論づけるにはまだ早すぎるし、また、ネット全般について、こうと判断するなどできまい。天使・悪魔のいずれにせよ、ある種の「可能性」を孕んでいるはずというのだ。その可能性は、既存メディアになにがしかの揺さぶりをかける。五十嵐は書く。

仲間ボメや、主宰礼讃や、組織防衛的発想に埋もれていては、俳句という文芸も早晩ただの家元制の習い事と変わらぬものとなってしまうに違いない。

この一文は、既成メディアを指すようにも読めるが、五十嵐の意図もそうだとしたら、私は、この部分に異議がある。インターネットにおいても、このことがそっくりそのまま当てはまるからだ。

俳句という遊びは、インターネットと親和性が高い(*2)。現実と非常に近い模造(さらにいえば、ネット上の現実)を構築しやすい。だからこそ、ネット上にも「座」が醸成するという見方がよくされる(私もそう思う)。同時に、ネット上もまた、既成の俳句世間とまったく同様に、「仲間ボメや、主宰礼讃や、組織防衛的発想」に埋もれるケースは少なくない。ネットにおける俳句ということにおいて、現実の俳句世間と「別の」世間が生起するよりむしろ、「そっくりの」世間が展開されているように思えるのだ。

ともあれ、ネットという新メディアを、活字メディアとの対照で捉えてのトピック抽出や問題提示とう点で示唆深い記事だと思った。

ただ、疑問・不満も挙げておくのが、誠実な態度だろう。ひとつはタイトル中、ネット上の俳句的言説を指した「堕胎された言語」という部分。寺山修司を多く引用することで、この語が説明されているが、紙数の制限からか、やや説明不足で情緒的な提示に終わっているように感じた。「堕胎」というイメージ喚起力のある語は、扱いに注意が必要だと思う。戸籍(旧メディア)上で認知される(活字化)こともない言説に、まだ何やらわからぬ「力」が潜んでいるという見方には首肯できるが、落書→堕胎という寺山修司の隠喩展開を用いずとも、多くのことが言えたのではないかなどとも思ってしまう。

もうひとつ。導入近くの匿名性に関する二分法(現実の俳人がネットで書き込む場合と匿名性が貫かれる場合)に関する問題は、じつは重要と思うが(当記事の落書論との絡みにおいて)、ややあっさりと片づけられている。

いずれにしても、もうすこし文字数があったほうが、よかったの鴨。

ただし、繰り返しになるが、とても興味深い記述に満ちた論考であることは間違いない。興味のある方は、本屋へ走れ!


(この記事つづく、かも)

(*1)じつは、この『俳句界』でこんな特集があるのは、秀彦さんのブログを読んで知ったのだった。
(*2)俳句とインターネットの親和性の理由は、俳句がことばという電子データ化しやすい材料から成るという基本的な事柄だけではない。インターネット(さらにはパソコンの)弱点は一覧性の悪さ。俳句は短いので、その弱点が気にならない。小説をモニター画面で読む場合と比べてみれば、よくわかる。

07-3-28追記
「開かれた書物、堕胎された言語」は以下のサイトで読める(その後、秀彦さん自身がサイト掲載されたもの)
http://homepage2.nifty.com/jinrai/page183.html
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by tenki00 | 2007-03-14 21:19 | haiku

俳句に似ているもの。その三。

まきびし。

参考→こちら

売るか、しかし。
http://www.kassai.co.jp/jidaiya/ninjya/18-OD-3392.html


信治さんのようなオチや気の利いた説明は、ない。あしからず。
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by tenki00 | 2007-03-14 01:27 | haiku