<   2006年 11月 ( 22 )   > この月の画像一覧

句集という儀礼

いただいた句集を拝読するときのこと。

本というのは、句集に限らず、導入のリズムのようなものがある。本題に入る前に、トビラや、トビラの裏の白いページ、また目次が、まず私たちを迎えてくれる。加えて、まえがきが備わる本もある。私たちはこうした書物のスタイルに慣れ親しみ、気持ちよく繰り返している。

さて句集。表紙を開け、トビラなどの導入部を経て、最初の1句が目に飛び込む。ページをめくり、数句を拝読。またページをめくり読み進む。これが、気持ちのよい本のスタイル。

ところが、こうした自然な流ればかりではない。多くの句集は、とても奇異なスタイルをとる。どこが奇異なのか。これは私だけが持つ印象かもしれないが、まず、本の帯だ。

一般に、この帯は書店に置かれたときに、客の目を引くためというのが目的のひとつ。他にも、急の広告文句(ナントカ賞受賞etc)を迅速・安価に纏わせるのに最適といった目的もあるが、ともかく書店に並ぶときに効果を発揮する(と私は信じている)。だから、書店に並ぶことのない自費出版の句集に帯があること自体、すこしばかり奇妙な心持ちになる(*1)。だが、奇異というのは、そのことではない。

帯に「自選十句」なんてものが刷られていることがある(*2)。これである。

ページをめくりながら、はじめて読む句に、読者として反応しながら読む。というか、他人様の句と、そのように出会いたい。ところが、自選十句。

……。
じゃあ、他の句は、なに?

それにまた、なぜに、同じ句を二度、読ませる?

まあ、それはいい。帯の十句には目をくれないようにしながら、ページをめくる。すると、どなたかの推薦文のようなページが、まず続く。多くは、所属結社の主宰の一文。そのなかに、また、数句から十数句が抜粋してあったりする。「自選」と重複したりすると、同じ句を三度も読まされることになる(だから、序文はけっして読まないのだが)。

この句集のなかで、どの句が素敵か。それくらいは、読者に、白紙の状態で選ばせてくれないのだろうか? こういう句集は、手に取って読んでくれる読者のことを、どのような存在と考えているのだろう?

とはいえ、事情は理解している。エラい先生の「序」が入るのは、俳句世間に広く定着した「第一句集の決まりごと」のようなものだ。「第一句集は主宰の選」と決められている結社もあると聞く。自選など、もってのほかなのだ。

この理由もわからないでもない。自費出版には、品質の検査もハードルもない。オカネさえ出せば、どんなものでも出てしまう。そこで、一人前の俳人が「内容を保証します」というそのしるしが、あの序文なのだろう。これこれこういうふうに俳句を始め、研鑽を積み、ようやくこうやって句集を皆さんに読んでもらえるところまで来ました、というわけだ。

結婚式の仲人の挨拶に似ている。新郎新婦は若輩で、まだ挨拶などできない。着飾って、神妙な顔をして、おとなしく坐っている。代わりに仲人が、新郎新婦の学歴職歴を紹介したうえで「人生の第一歩をまだ踏み出したばかりです。これからも皆さん、よろしくご鞭撻のほどを」うんぬん。

第一句集を俳句世間へのお披露目と考えれば、読者には奇異に思えるいろいろなことも納得が行く。

儀礼にはコストもかかる。先生あるいは主宰に、200句ないし300句を選句してもらい、なおかつ「序」を書いてもらうと、選句+「序」の執筆の御礼の相場が20万ペソ、高いケースだと50万ペソにものぼると聞いた(*3)。ただでさえ、自費出版はオカネがかかる。そのうえに礼金である。

句集は、ことほどさように儀礼である。こう言い切って悪いなら、儀礼的側面をもつ。第一句集は、文化人類学的にいえば、イニシエーション(入社儀礼)。しかしながら、どこに入っていこうというのだろう?


(*1)句集の帯に、やたらハイテンションな惹句が刷られていることもある。惹句とは、もちろんのこと、本屋で目に止まり、手にとってもらうためのものだ。寄贈がもっぱらの句集の場合、いったい誰に向かって提示される惹句なのだろう?
(*2)帯に自選十句を刷るのは、紹介文を書いてくれる人への心配りでもあろう。何句か抜粋して、俳句雑誌に句集を紹介するとき、帯の十句から抜くという方法がとれる。もちろんすべてのページに目を通すはずだが、作者が「粗選り」をしてくれたなかから選ぶほうが、いろいろな意味でシュアだろう。
(*3)結社「麦」で、「一律5万ペソ」という取り決めをしたこともあると仄聞した。相場がわからず困惑するのが「礼金」の常である。だから「一律いくら」と決めるという方法もあるが、いかんせん設定が安すぎたようだ。田沼さん、いまさら言っても詮無いですが、ご愁傷様です。
[PR]
by tenki00 | 2006-11-29 23:02 | haiku

俳句と「文学」

「文学」の価値下落の一側面だなあ、と思ったのは、大学の先生とお話ししているときのことだ。このところ、「文学」という看板がどんどん描き変えられているという話。つまり、「文学」では子どもを集められないという事情。学部名はともかく、学科名においては、「文学」から「文化」や「コミュニケーション」といった語への言い換えが進んでいるという。例えば日本文学科から日本文化学科、英米文学科ではなく国際コミュニケーション学科。

「文学」の価値そのものがどう変化しているかは置くとして、社会的には、あるいは(もっと世俗的に)時流としては、「文学」という語の吸引力(魅力)は確実に減少傾向にあるのだろう。

このことを私などは楽観的に、「ことば」にまつわるいろいろが、「文学」という硬直化した器から染み出して(あるいは溢れ出して)、バラエティ豊かな局面へと広がった結果とも思うが、「文学」の伝統的信奉者には不安なことだ。この不安は、感情的情緒的な側面、アカデミックな側面、経営的な側面(先ほどの学科名変更が一例)でそれぞれ異なる展開を見せるが、「文学」がかつてのような位置にないことは自明のようだ。

さて俳句。俳句と文学の関係は、やや微妙だ。近代以降、「文学」という概念がどんどん定着し価値を増していた時期から、幸か不幸か、俳句は、文学のはじっこ、あるいは文学とは別のカテゴリーにあった。

いま、俳句は文学か?という(いささか乱暴な)問いに向かって、俳句愛好者の多くが、「もちろん疑いもなく文学」と答える一方で、多くは「文学と思ったことはない」と答える。前者は理念に傾き、後者は実感に傾いているだけで、考えていること、やっていることはそれほど変わらない感じもするが、それにしても、同じ「文芸の一ジャンル」について、態度表明がはっきりと分かれてしまうのは、俳句独自の事情かもしれない。

ところで、私自身は、俳句が「文学」であろうがなかろうが、どちらでもいいというスタンス。ここまで「文学」という話題で進めておきながら、無責任なことだが、私の興味は「俳句とはどんなものか?」であって、そこで「文学か否か」という属性はあまり重要な役割を果たさない。

「どちらでもいい」と言った意味は、「どなたさまもご随意に」ということだ。文学と思いたい人はそう思えばいいし、逆も同じ。ただ、どちらも句(生み出すテキスト)の保証にはならない。つまり、文学と信じる俳人の句に価値があり、そうでない人の句に価値がないということはない(逆も同じ)。

ただ、これは理屈(論理)ではなく、スタイルというか趣味の面から、俳句は「文学」であるという信心には含羞が欲しい。

攝津幸彦は、『恒信風』誌のインタビュー(*)の最後あたりで、「だって俳句は文学と信じたいじゃないですか」といったことを口にした。とても恥ずかしそうに。

この告白、この含羞が大事なのかな、と、なんとなく考えている。胸を張って「俳句は文学である」と大声で言明する、あるいは逆のこと(「文学ではない」)をはっきりと言明する、そのどちらも「俳句的」ではないと思うからだ。堂々の大声、それは粋じゃないし、オツじゃないし。

文学? んん? そうじゃない? どっちだろう? と、他人から見れば優柔不断に気弱に、そして恥ずかしそうに揺れ動くほうがむしろ俳句的と思うのだ。

(つづく、鴨)

(*)このインタビューは『攝津幸彦選集』(邑書林)に再録されている(割愛部分を復活させたロングヴァージョン)。句作の舞台裏というか、かなりぶっちゃけた話もあり、興味深い。これをもってしても、この本は買って損なし。
[PR]
by tenki00 | 2006-11-26 23:52 | haiku

今日は三島忌、ということで

ネットで探したが、いい句は少ない。ネットで、というのが手軽すぎるが。

三島忌の帽子の中のうどんかな  攝津幸彦   

さうか三島忌か千枚漬の石   藤田あけ烏

三島忌やすっぽりぬけしコンビーフ  雪我狂流

三島忌やすっぽりぬけしコンドーム  雪我狂流

三島忌の映画の松が水平に  振り子 ※最近作(BBS・Satin Doll より)

【備考】 別の意味だが、注目句も引いておく。

   三島忌の帽子の中の虚空かな  角川春樹
[PR]
by tenki00 | 2006-11-25 22:02 | haiku

阿曽山大噴火の法廷レポート

なかなか実際には足を踏み入れることのない法廷(私自身、まだ原告席にも被告席にも傍聴席にも坐ったことがない)での出来事をレポートしてくれる阿曽山大噴火という人がおもしろい。

記事は例えばこちら↓
http://www.nikkansports.com/general/asozan/2006/asozan067.html
堀江被告って、もう世間では忘れられた感があるから怖い、時の経つのが早すぎて怖い。

だが、実は、文章よりもしゃべりのほうが100倍おもしろい。現場の雰囲気が伝わる。
→TBSラジオのストリーム(愛聴番組ざんす)の音声データで聞ける。
http://tbs954.cocolog-nifty.com/st/cat5524562/index.html

法廷シーンは、アメリカ映画が巧い。映画全体は平均点、観客が飽きそうになったところで法廷シーンへ。ここで身を乗り出してしまう。だが、阿曽山大噴火氏のレポートを聞いていると、(取り上げる事件がB級というせいもあるが)アメリカの緊迫感とはいささか趣が違う。和風のもっちゃり感。これがオツなのだ。ともかく、ご一読、ご一聴を。

おっと本も出ている。『裁判大噴火』。さっそく買ってみよう。

ちなみにこの人、大川興業。ここは、ほんと、あなどれない。
[PR]
by tenki00 | 2006-11-24 23:34 | pastime

コンテンツの供給量という問題

『俳句研究』12月号を買う。目次をめくり、まずは朝比古さんの受賞第1作「をこがましき」のページへ。

  八王子西八王子高尾秋  朝比古

あはは。やっとるやっとる。

他のページもめくる。俳句を読む。律儀に目を通す。岸本尚毅に、数句、気持ちよい句がある。他は……。ううむ。これだけたくさん載っているのにね(「おっ、今井杏太郎の句もある」と、「枯れながら」10句を期待して読んだが、「枯れ」を通り越して、医学的にもう息も脈もなかった)。

記事も読む。仁平勝「句が『変化』すること」に、五七五という定型が消滅すれば、また、句会という形式が消滅すれば(つまり、誰も句会をしなくなれば)、俳句は詩一般に解消される、とある。定型と座の存在が、俳句を詩と隔てているわけか。なるほど。
※どうでもいいが、この人、1のことを言うのに3~4倍に希釈する。普通の人なら3回しか持たない連載が10回にも15回もなる。ある意味、プロ(良い子はマネしちゃダメ)。
で、他は……。

まえまえから感じることだけれど、この手の雑誌、めまいがするほどつまらない。読むところがほとんどない。これは私のせいか。不勉強? しかし一方、冷静に見て、ちょっと困った状態ともいえる。わざわざたいそうに活字にするような句か?ってな感じだし(かといって遊べているなあと感心する句群もない)、記事はといえば、2、3行読めば、底割れの見えるものがほとんど。もっとも、数百円で、数片のテクストが楽しめれば充分という考え方もある。だが、そんな太っ腹な購買者を相手にできる雑誌はなかなかない。

で、ここから一般論。つまり、(句も含めた)コンテンツの供給量が絶対的に不足しているのだ。こうした「俳句総合誌」のコンテンツの供給源が「俳壇」なわけだが、それが、わずかなメディア(俳句総合誌)を満たすだけのテクストさえ生み出せていないということなのだろう。「俳壇」でも「俳句世間」でもいいけれど、それは実のところ、そうとうに貧相なものなのかもしれない。

「あれ? 俳句って、こんなにつまらないもんだっけ?」とあるときふっと気づくとしたら、きっと悲しい。そうならないために、せいぜい、おもしろいものを探すことにするざんす。
[PR]
by tenki00 | 2006-11-23 21:35 | haiku

俳句漫遊記97 穴井太

吉良常と名づけし鶏は孤独らし  穴井太

吉良常は「人生劇場」か。知らなんだ。口吻のおもしろさをまず愉しむ。底割れのない虚構を次に愉しむ。いい空気。

掲句は『鶏と鳩と夕焼と』1963(第一句集)所収。

他に。
くりからもんもん冬の金魚は逆立ちに
霧にまぎれ重工業の突き出す胃
瓦せんべい風をまくらにねむる町
高原驟雨真鯉のような青僧侶
しぐるるや胡桃に甲斐の国の音
[PR]
by tenki00 | 2006-11-22 23:53 | haiku-manyuuki

祝! NPB2

NPB2 → http://www.npb2.com/
まずは御一読を。

ブログ「自称阪神タイガース評論家」のtoraoさんが立ち上げた(*1)「第2日本野球機構」。

私はもちろん登録した(*2)。だって、いまのNPB(日本野球機構)って、ぜんぜんダメだと思うもの。そして、ダメだから「2」を作っちゃえという考え方はとてもステキなんだもの。


(*1)タイガースファンのtoraoさんの発案だが、NPB2はタイガースファン限定ということでは、まったくない。
(*2)上記ウェブサイトの右にある「新規登録」で簡単にできる。といっても登録後、どうすればいいのか、まったくわからない。まあ、いれば、おもしろいことに立ち会えるだろう。
[PR]
by tenki00 | 2006-11-21 22:38 | pastime

敬愚(robin d. gill)さんの櫻本、完成!

d0022722_20412382.jpgCherry Blossom Epiphany

お知らせは敬愚さんのホームページ内のここ→http://www.paraverse.org/waparaverse.htm

アマゾンでの予約はこちら
[PR]
by tenki00 | 2006-11-21 20:39

俳句漫遊記96 寺山修司

秋風やひとさし指は誰の墓  修司

カッコヨス。(…使ってみたかった)

『寺山修司の俳句入門』(光文社文庫)の刊行もあって、周囲のいろいろな場面で話題にのぼっている寺山修司。多くを読んでいるわけではないが、私的メモリアルとして。

秀彦さんの「寺山修司俳句論--私の墓は、私のことば」は、「私」性に関して、俳句一般の重要テーマにも関わる示唆深い論考。
http://homepage2.nifty.com/jinrai/page140.html
[PR]
by tenki00 | 2006-11-20 21:15 | haiku-manyuuki

自分でやれば?という話も多かったりする

コミットして何か言うのと、コミットせずに傍から何か言うのとは決定的に違う。これは経験とかそういう問題ではなく、なんというか、その、資格の問題。

「そこをもうちょっと、ああ、そうじゃなく。それをこうすれば、うんうん」
「あんたがやれば?」
「私? いや、私は、いい」
「じゃ、黙ってれば?」

こういうこと、このところ、私の周辺に多い。

コミットしてはじめて言えることがたくさんある。コミットせずに言ってはならないことがある。

うまくいくこと(成功)も、うまくいかないこと(失敗)も、やってみてはじめて手にできる。やらない人の手にはどちらもない。あたりまえの話。

「失敗を手に入れる」ということも、オツだったりするから、私は、なんだかわからないが、とりあえずやってみたりするのだ。
[PR]
by tenki00 | 2006-11-19 22:04 | haiku