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パブロフの犬

子どもが泣いている → なにが悲しいのか?
風鈴が鳴っている  → 涼しげ
雨が続く → うっとうしい

モノやコトの発するシグナルが、条件反射的にメンタルな反応としてデコード(解読)される。パブロフの犬に似て。

こうした連関(連想)からは、楽しいことは起こりそうにない。ところが、俳句では、この類のセット、既成のセット、最大公約数的なセットに頼るところも実際には大きい。例えば「共感」という言い方。パブロフの犬は、人気の高い、評価の高い句をつくったりする。大勢のパブロフの犬から賞賛を受けるような。

電話が鳴る → A(a1,a2,a3……an)
夕焼 → B(b1,b2,b3……bn)

電話の音から(a)、夕焼から(b)が導かれる。そこから出発する句作は、n個の既成に1個の既成をプラスするだけのことで、「夕焼」も、「電話の音」も、言葉の作用のなかで擦り切れていく一方となる。おおかたの場合、俳句をつくることは、言葉の擦り切れをぐんぐんと推進することにもなっている。言葉(言語パフォーマンス)の集団的疲弊に加担していることを、多くの人が気づきながら(さらに多くの人はそんなことなどおかまいなしに)、句を作り続ける。

それじゃあ、夕焼から(b)ではなく、(c)を導くと、どうか? 突拍子もない(c)

誰にも理解されない悲しい句になる可能性が高い。きっと、(β)あたりがよいのだろう。夕焼から(b)でも(c)でもなく(β)を。だが、どうやって? 答え:せいぜいがんばって。

パブロフの犬のままでも、いっこうにかまわなくて、けっこう楽しいが、そうでないところもやはり考えていたいじゃないですか、人間なら。
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by tenki00 | 2006-09-29 22:46 | haiku

秀樹めくり

むかしむかし「秀樹めくり」というカードが流行った。といっても、売っているわけではない。自分たちで作るのだ。

1) 用意するもの…ショートホープの空き箱(たくさん)、「明星」または「平凡」(古本で可)。
2) ショートホープの空き箱(外箱)の折り目にハサミを入れ、カードを作る。
3) 「明星」または「平凡」から、適宜、女性アイドル写真を切り取り、2)のカードに貼る。
4) 女性アイドルのほか、西条秀樹の写真を1枚、切り取り、カードに貼る。
5) 上記カードのほか、三宅邦子(サラリン錠の広告)を切り取り、カードに貼る。

つごう、秀樹カード1枚、サラリンのおばさんカード1枚、女性アイドルカード多数が出来上がる。遊び方は、それぞれ創意工夫。

私たちの場合、何かを決めるとき、例えば、夜中に煙草が切れて、誰が買いに行くかを決めようというとき、この「秀樹めくり」のカード一式が登場。順番にめくっていき、「秀樹」を引いた者が、買いに行った。

5枚を引いて強さを競う「秀樹ポーカー」も盛んだった。手札に、秀樹がいて、おまけに森昌子、松任谷由美がいたときなど、目の前が真っ暗になったものだ。ただ、山口いづみ(「緑の季節」でデビュー、のち女優)は、自分では最強と思っていても、実はそうでもなかったり、友人の場合は、木ノ内みどり(横浜いれぶん)がそれに該たったりするから、奥は深い。なお、サラリンのおばさん(三宅邦子)を「大逆転」カードとするルールがもっぱらであった。

ほかに遊び方は無限。

この「秀樹めくり」、俳句とは、あまり似ていない。
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by tenki00 | 2006-09-28 23:29 | pastime

連想ゲーム

むかしむかし「連想ゲーム」という遊びが流行った。といっても、あのNHKでやっていたのとは別種。少々込み入るが、手順を説明するざんす。

1) 人数は最低5人以上。あまり多くなってもいけない。7~8人が最適か。以下、7人のパターンで説明。
2) プレーヤーABCDEFGが集まり、まずAが出題。これは題詠の要領。単語でもいいし、カテゴリーでもいいし、テーマでもいい。例は単純に「海」と出題するとする。
3) BCDEFGの6人はそれぞれ「海」から連想するものを紙片に書き、Aに渡す。
4) Aは6枚の紙片をシャッフルして読み上げる。
5) BCDEFGは、自分以外のプレーヤーが何を連想したかを推理し、答えを順に言う。
6) A(出題者)はこのとき審判になり、それぞれの推理のアタリ・ハズレを記していく(このとき正解か不正解かを参加者に悟られないようにメモする)
7) 当たれば得点、当てられたら失点。
8) 1つの題が終わったら、出題者(審判)はBに移る。出題者(審判)が一巡して、1クール終わり、点数を集計。順位が決まる。

誰がどんな連想をするのか、どんな語を選ぶのか、それを予想するので、まるっきり知らない同士よりも、知っている同士がおもしろい。

推理する側としては、「あいつなら、こんなことを思うだろう、言いそうだ」と推理するが、相手も裏をかいてくるので、裏の裏を読むことも必要。「いかにも」という語が、そうとは限らない。

推理される側としては、ゲームに勝利するためには、意表をつく作戦が有効だ。周囲が自分について抱く「いかにも」なイメージを裏切った連想を紙片に書くということ。

ところが、ゲームが進むうち、たいていのプレーヤーは1つの葛藤を味わう。ゲームの勝敗という点では不利とわかっていながら、「自分の色を出したい」という衝動に駆られるのだ。

いつもいつも、自分のしそうにない連想を紙片に書き、周囲の「意外」ばかりを集めてはいられない。連想の語を書いた紙片を通して、「自分」を確認してもらいたいと思う衝動は、存外に強い。


これって、 ちょっと、俳句と似てる。

紙とペンがあれば遊べるという点もそうだが、ゲームと自己表現という点で。
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by tenki00 | 2006-09-27 09:45 | haiku

八百屋のおじさんは大衆か?

昨日の句会後の雑談で、祐天寺大将がこんなこと言ってました。

「八百屋のおじさんは大衆かあ?」

これは、参加者のおひとりが、第19回現代俳句協会青年部シンポジウム(ちょっと前、ここでも記事にしました)に出かける予定とかというお話をされた、その流れで出た話なんですが、答えは、こうです。

「大根を見ているとき、八百屋のおじさんは大衆じゃねえぞ。そりゃあ、ぜんぜん違う」

ここで言う「八百屋のおじさん」とか「たばこ屋のおばさん」はよく使われる譬え。いわゆる「インテリ」(死語~!)じゃない人の譬え。他意はない。んで、そこには「大衆」みたいなことも含まれる。

なるほどー。感心しちゃいましたよ。

知(savoir:トニー谷主義的に、おフランス語使っちゃいますよ、この際)を、中世的に、固定的にだけ考えていては、とんでもないお笑いぐさに終わってしまう。祐天寺大将は「知」なんて、涎みたいな語は使いませんでしたが、こうだと思うんです。八百屋さんには八百屋さんの「知」がある。知とか大衆性を、人や社会集団と一元的にリンクさせて考えていては、そうとうトンチンカンなことになる。

私、この大将の言葉を聞いて、ミッシェル・セールの本のなかのエピソードを思い出しましたよ。うろ覚えなのが悲しいですが、船頭の話でした。船頭が、川面の下の水の流れを読み取るって話でした。これもまた、祐天寺大将の言う「大衆じゃねえぞ。そりゃあ」なわけです。

こういうことって、ちょっと現代思想(きゃ!恥ずかしい)を囓った人なら、すぐにレヴィ=ストロース「野生の思考」を思い出すはずです。なんでもかんでもいっしょくたにするのはなんですが、「知」を一元的に考えることの愚は、もう半世紀近く前に指摘され了解されています。

いまだに「知」を一元的に捉え、それを前提に(なおなつそうした前提の危うさの検証もなしに)「大衆」みたいなものを語るとしたら、それこそ臍が茶を沸かす(古い~!)式の大笑いになってしまう。

で、例のイベント、第19回現代俳句協会青年部シンポジウム。なーんか、嫌な予感がするざんす。しません? 告知書面の前文、なんも考えずにただ筆を滑らせただけにしか思えない一文を読んでると。


ま、それは10月7日に出かけてみればわかることだから、いいとして、ここで、一般的なこと。

ものごとを考えれば考えるほど、言いよどんでしまう、ということがよくあります。単純化して、すぱっと言い切ることなんて、とてもできないことに気づくから。

それが例えば「大衆性」という概念だと思うんです。

疑いもなく声高に言明してしまうことで、ろくすっぽ考えていないことを証明してしまうことがあります(これは上と同じことを言っているのですが)。

それが例えば「大衆性」という語だと思うんです。

よく考えているから、はっきりとモノが言えるということも、もちろん多々ありますが、逆もあります。まともに考えていれば、よーく考えようとしているなら、言いよどむしかない、保留にするしかない。そんなことも多々、なわけです。

雄弁の土台には、理解と無知の2通りがある。沈黙・逡巡にも同様。思慮と無知がある。そう思いますよ、つくづく。

あるものごとについては、思慮深く言いよどむことができる。それがオトナっつうことなんですけどね。


なぜか、今回、ですます調。

付記すれば、句会後の雑談のなかに、いろいろタメになることがあるんですよ、私の場合。言い換えれば、そんな句会ほど楽しい。そういうことざんす。
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by tenki00 | 2006-09-25 20:45 | haiku

俳句を作るならⅡ

あやかさんは言う。
その句は、誰が作ってもよかったのだから。
http://newmicrowaveoven.blog45.fc2.com/blog-entry-126.html

そのとおりだと思う。だが、一方で、どんな句も(どんなヘタくそな句も、へなちょこな句も)、その人(私)にしか作れない。そのとき、作られた別の人の句を、その人(私)がなりかわって作れないように。

誰が作ってもよかった句を、ほかでもないあなた/私/誰かが作ってしまうこと。言葉の生成は集合的(collective)な要因に支配される(「言語表現のすべては引用と編集である」)が、それが発せられるとき(表出という局面)、ひとりの口からでしかない。これはきわめて物理的な問題。口は共有できない。筆を多数で同時に握ることはできない。俳句が、ひとりの口を選ぶ(というと晴れがましい。そうではない。偶然の選択)。

だから、俳句を作るとき問題となるのは、あなたが/私が何を発したいかではない。俳句(形式)が何を発しようとするのか、それだけだ。

ちょいと空想的なので、すこしは現実的に。

「その句で何が言いたいのか、俳句(形式)で何を伝えたいのか」といった問い(ある局面で実際に耳にする問い)には、「私には、わからない。私には、伝えたいことがなにひとつない」という答えだけが正しい。

ギッチョンチョン。
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by tenki00 | 2006-09-23 23:30 | haiku

句にする必要はない

「これ、俳句にならないかな?」と、酒席などで冗談まじりに俳人(俳句愛好者)が言う。おもしろいこと(もの)があった。それを俳句にしたい。ごくあたりまえの衝動(が大袈裟なら欲求)?

でも、なんだかヘン。

おもしろいこと(もの)がすでにあるなら、もうそれで幸せだろう。なぜ、わざわざ五七五にする必要がある?

おまけに、五七五にしてみたら、「あの」おもしろさに少し足りない。言い切れていなくて(伝えきれていなくて)もどかしいという思いも味わう。ほら、句にしないほうがよかった。

おもしろいこと(もの)との遭遇は、「感動」と言い換えてもいい。《おもしろいこと(もの)との遭遇・感動 → 句をつくる》という作用の順序は、逆である。このことは、たじまさんも再三書いていたような気がする(例によって、同じようなことを言うのに、私とは「こうも違うか」というくらい違う言い方にはなるのだが)。当該箇所を見つけ出してリンクするのはめんどうだから、自分で探してみてちょうだい。このブログ→http://moon.ap.teacup.com/tajima/んなかのどこか。

さて、こういうことだ。

おもしろくもないこと。それを句にすると、それほどおもしろいわけではないが、ちょっとだけおもしろい。

この「ちょっとおもしろい」というのが俳句の領分。

雪我狂流さんがよく言っていた。「おもしろいものなら、ほかにたくさんある」
きっと映画や音楽や現実の暮らしやいろいろ。じつにさまざまないろいろ。そのことだ。
狂流さんは言う。「句というのは、つまらなくて、いいの」
これが、「ちょっとおもしろい」とほぼ同義。さらにニュアンスを探れば、「つまらない」と「ちょっとおもしろい」の狭間に、俳句のいちばん美味しいエキスがある。

おっとっと、話が逸れたぞー。

話を戻す。すごくおもしろいこと(もの)があった、なんともいえぬ興趣を味わった。そんなときは、それで満足しきることだ。俳句にしようなんて思わないことだ。

ギッチョンチョン。



↑意味はありません。締めにときどき使いたいと思い、使いました。  
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by tenki00 | 2006-09-22 21:39 | haiku

俳句漫遊記89 雨の鹿

一枚の絹の彼方の雨の鹿  永島靖子

自註に「奈良」とあるので、例えば、絹の布が翻ったその彼方の雨のなかに鹿が見えるのかもしれない。この景は、現実の一瞬、見えたままの景のようにも思えてくる。

なんと美しい句。

美しい句にほれぼれと見とれるために、俳句の近くにいるようものだ。

掲句は『永島靖子句集』(ふらんす堂2004・鷹同人自註句集シリーズ2)所収。この句集から他にいくつか。

扇ひらいて見つくせり雨の山  永島靖子(以下同)
冬帽子めんどりを背に感じをり
橋に倚り橋のつめたし夏祭
低き瓦低き瓦鯛売られけり
乙女らよ空蝉の背の割れざまよ
書肆深く昼鳴く虫のありにけり
盆過の箪笥の影に坐りけり
 
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by tenki00 | 2006-09-20 22:10 | haiku-manyuuki

ブログ検索

http://www.technorati.jp/
少し前から、たまに使う。これ↑が便利っぽい。
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by tenki00 | 2006-09-19 23:27 | pastime

本屋さん

本や本屋について書いた本が好きで、よく読む。この手のエッセイの多い人もたくさんいる。出久根達郎はウェルメイドとは思うが、なんかくすぐったくてちょっと苦手。毛色を違えて荒俣宏はつまらなくはないが、なんかコクがない。好みは、紀田順一郎や(この分野だけではないが)種村季弘、それから(多くは読んでいないが)横田順彌もおもしろかった。数年前話題になった 『誰が本を殺したか』(佐野真一)もじっくり読んだし、津野海太郎の「本とコンピュータ」関係の書籍も、(おもしろくではないが)興味深く読んだ。

このあいだ本屋の棚で『書店繁盛記』(田口久美子・ポプラ社)を見つけ、ぱらぱらとめくって購入。読んでみると内容はつまらなく、「書名負け」。でも、興味深いネタもいくつか。

はっきりした数字は示されていないが、本の売上の話が出てくる。日本でいちばん本を売っている小売はどこか? 答えはセブンイレブン。2位はTSUTAYA。3位はブックオフ。書店チェーンは上位に入ってこない。

じゃあキオスクは?ベスト3に入らないのか?という疑問が頭をもたげるが、それはそれとして、凄いベスト3だ。雑誌・コミックが大きな部分を占めるとはいえ、本の好きな人間にとっては、「つまらない世の中になったなあ」と溜息の出る事実ではある。

書籍ということ、そして従来型の「本屋」ということなら、紀伊国屋書店がトップ(全体でもトップという時代が長かったはずだ)。紀伊国屋書店の売上は全国の売上の1%を占める。これが出版社の目安。出版社は、紀伊国屋書店のリアルタイムの売れ行きをオンラインで閲覧できる。ある本が紀ノ国屋で1日5冊売れたとすると、全国で500冊売れたと推測できる。同じペースで行けば、20日間で1万部。販促や増刷の目安となるのが、紀ノ国屋書店の売れ行きデータなのだ。

ところで、アマゾンはどのくらい本を売っているのか? 上記『書店繁盛記』は、すでに紀伊国屋書店を凌いでいると見る。それが正しいとしたら、これもまた凄い世の中だ。

オンライン書店の一番のメリットは検索。思い入れは、リアルの書店にあるが、オンライン書店ははやはり便利だ。私の場合、アマゾンは使わない。e本で注文し、近くの増田書店で支払い、受け取る方法をとる。

増田書店が好きだからだ。もう何十年も、この本屋に3日とあけず足を運んでいる(買う買わないにかかわらず)。だから、オンライン書店の検索機能を便利に使いはするが、お金は増田書店のカウンターで支払い(e本とどういう折半なのか知らないが)、本を受け取る。

いい本屋さんは、やはり、いい。いい本屋さんが近くにある暮らしを続けてこられて、幸せだったと思う。
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by tenki00 | 2006-09-19 21:35 | pastime

インターネットと現実

たじまさんの記事。
http://moon.ap.teacup.com/tajima/266.html
一点、気になる。

私についての「長年、インターネットの中で過ごしている」という部分。

「インターネット俳句」デビューは、たじまさんの「俳句な毎日」でござんした。あそこでずいぶん勉強させていただきました(シノギではそのずっと前から、パソコン通信、インターネットのお世話になっております)。

ですので、「長年」は間違い。皆さんのほうがよほど長い。

もうひとつ。「インターネットの中」じゃなくて、仕事場と自宅と、たまにお外で過ごしております。ハードなシノギと平穏な家庭生活。いろんな人やモノに感謝しながら、ちっちゃなちっちゃな幸せ♪を暮らしております。

インターネットはツールに過ぎません。通信のツール。かなり優秀なツール。でも、ツールということ抜きで捉えれば、インターネットはゴミ溜め。ツールとしてハンドリングもできない、頭の中がゴミ溜めの有象無象が何をしようが、「現実」は動きません。動かしてもらっちゃ困る。

たじまさんのこの記事に多謝多謝。でも、そこんとこだけ、ちょっと。
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by tenki00 | 2006-09-18 23:10 | haiku