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2005年 句集をたくさん拝読したのこと

大晦日の今日になって、贈呈句集が届いた。麦の会の朋子姐さんからだ。タイトルは『ぶりっ子』。……これ、ツキスギ、だべ?(なぜか訛る) そいからですねえ、プロフィールのページの写真、実物のほうが良いんではないの?(めずらしいケース) 

さて、今年一年、句集をたくさんいただいた。御礼のお手紙がまだ書けていないものも数冊。正月に時間をとろう。例年になく自分で買って読んだものも多い。そこで、ベスト3なんぞを挙げてみたい。

なお、2005年刊行のものと限定しない。私が2005年に読んだということで。ずいぶん古いものも混じるし、まあ、皆様にとって「どーでもいいこと」ですが、年末によくあるあれで。はい。(順不同)。

『佐々木六戈集』(邑書林 2003年12月
どばっとたくさん並んでいる句群。一見行儀よく正座しているようで、よく見ると、足の裏を掻いていたり、ごろんとだらしなく横になったりした句がたくさん。その挙措がなんともよい。

攝津幸彦『鹿々集』『攝津幸彦全句集』
関連記事⇒http://sky.ap.teacup.com/tenki/298.html
いまさらだが、たくさん読んで、たくさん楽しんだ。世間でどんな読まれ方をしているのか、よく知らないが、この人の句の「愛嬌」「いたずらっぽさ」が、めっぽういい。

毛呂篤の句集、5.6冊
関連記事⇒http://sky.ap.teacup.com/tenki/266.html
なんともいえず土俗かつ洒脱。かつバカ(笑。この味は、俳句以外の分野に広げてもなかなか見当たらない。

ということで、3つ。

他にもおもしろく拝読したもの、いくつか。半面、期待して買ったものの、まったくつまらなかった句集も数冊。自分の嗅覚のなさにめげた。

来年も、句集を読む。ふだん句会で他人様の句を読むのとは、まったく違う楽しさがある。だから、買ったり、いただいたりで、たくさん読みたい。楽しい句を読ませてくれる俳人さんたちに多謝多謝!であります。

そろそろ、蕎麦、喰お。
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by tenki00 | 2005-12-31 19:32 | haiku

浮御堂2005年 極私的俳句的 重大ニュース

ま、年末の恒例行事みたいなことで。はい。

1.さいばら天気人名句集『チャーリーさん』刊行(2005年1月1日)。
贈呈後のお叱りを怖れていた先輩諸氏から予想外の温かい御言葉をいただきまくる。一方、同世代の俳人は、一部を除き、おおかた冷ややか。なお、チャーリー浜氏にはまだ贈呈できていない。吉本興業気付での贈呈をいまだに検討中だが、残部僅少。

2.田沼文雄句集『即自』刊行。
刊行委員会の一員として、刊行にこぎ着ける。いろいろあったが、まあ、めでたい。そう自分で結論づけた。残部あります。興味のある方は天気、または麦の会同人までご連絡を。

3.どさくさにまぎれて豆の木賞受賞、そして豆の木合宿に参加。
ブログ(2004年スタートの旧ブログ)において雄鬼さんたじまさんらと、熱い(笑)俳論を交わしたのがきっかけで、四童さんより、「おめえよお、そろそろ顔見せてもらわんとなあ。しめしがつかんだろうが(要旨)」とのメールをいただき、豆の木さん滝沢談話室句会(当時)に参加(と、ここまでは2004年だった)。その流れで2005年豆の木賞、「なんでもいいから出せばいいのよ」とのドスの効いた、こしの大将の御言葉(メール)にしたがい、豆の木さんのプロトコルも知らぬ分からぬままに投句。どさくさまぎれの豆の木賞受賞。その流れで合宿に参加。俳句獣(複数)と一夜を共にする。
豆の木合宿の記事はこちら⇒http://tenki00.exblog.jp/414251/

4.麦の会「収穫祭」に投句。
結果は第2位なるも、大塚健一郎氏、対馬康子氏の第1位選をいただき、満足(つまり嬉しい)。一方、十数人だか二十数人だか中、最下位近くの評点だった審査員もおられ、評者によって幅の出る30句(私の句)だったようだ(あるいは評者に幅があるのか? わけわからん)。
関連記事はこちら⇒http://tenki00.exblog.jp/1378230/

5.ブログ移転。
2004年、teacupでスタートするも、このサービス、サーバがダメダメで、愛想を尽かし、excite へ。検討も熟慮もなしに移り現在に至る。excite は使えるデザインがダメダメだが、許容範囲。

6.あめを・てんきの俳句漫才始まる。
俳句をあまり知らない同士が俳句を語る稀代の無内容・無見識ながら、一部に奇特なファンのありとも。
俳句漫才のバックナンバーはこちら⇒http://tenki00.exblog.jp/i6

7.連句掲示板で野球歌仙満尾。
プロ野球シーズンにほぼシンクロしたゆったりとした流れ。毎年恒例となりつつある。現有勢力も来季デビューを期する新人も、シーズンオフの調整を怠らぬよう告げておく。来年もやる!
連句掲示板はこちら⇒http://6605.teacup.com/ukimidorenku/bbs
歌仙格納庫はこちら⇒http://www5f.biglobe.ne.jp/~tabularasa/storage02kasenindex.htm

8.メール句会オクンチが盛況。
「一句裸立ち」(選もコメントもつかず誉められも貶されもせず句だけが結果発表書面にぽつねんと立っていること。別名すっぱだか。これほど寂しいことはない)なる用語を案出、提示。徐々に浸透定着中。それはともかく、この句会、手練、曲者、変人、廃人、初心者等が集い「俳人動物園」の様相を呈する。私にとって、きわめて貴重な句座のひとつになっている。来年も宜しく!です。
オクンチの楽屋はこちら⇒http://www3.ezbbs.net/03/0123/

9.ハイクマシーンさんと絡む。
ひょんなことからハイクマシーンさんと絡む。メンバーの信治さんのブログは、俳句(既存有名句)を独特の切り方をしていて、楽しみな読み物。
   去年今年上田信治の胃のかたち  てんき
あやかさんのブログは句集をとりあげる。掲句(引用句)が多数で、おもしろい句が句集を買わずして読める(買えよ!って?)嬉しいブログ。また引用以外の記事部分にも『櫂未知子集』についての把握等、興味深いものが多い。ユースケさんのブログは、話題を投げて、あとはコメント欄でドッタンバッタン、くんずほぐれつ。これがユースケさんの戦術なのかとも思う。記事についてあえてお節介を言えば、「論点整理!」「ロジックをきちんと積め!」「じじむさい語調、なんとかせえよ!」などいろいろあるが(笑、ともかく今のところは「がんばれー!」とエールを送る。

10.yuki氏大活躍。
当ブログでも大暴れのyuki氏、春にピアノデュオ、秋にソロのコンサート。俳句関係の先輩諸氏・句友諸氏にも多数お越しいただく。檀さん、yuki氏について曰く「ブログで想像していたイメージと違った」。……同じだと、怖い。ブログでは、ちょっと誇張しているかもしれない。許せ、yuki氏。


【おまけ】句会いろいろ
浮御堂くにたち句会
毎月開催とは行かなかったが盛況。悪魔のように食したものは、新年のおせちに始まり、蟹とノドグロ(金沢近江町市場より取り寄せ)、さんま鮨(新宮)、鯛の浜焼き(瀬戸内海)、雲丹(三陸宮古)、鰹のたたき(土佐)などなど、ぜーんぶ美味。俳句も選評も面白かった。来年もよろしくどうぞ!

他にさいばら天気が寄らせていただいた(リアルの)句会
月天句会(根岸グルの)、百句会(祐天寺大将の)、豆の木句会(こしの総帥の)、麦の会月例会、麦の会東京研究会、田沼さん復帰特別句会(in稲毛)
残念ながら欠席することが多かった。来年はリアル句会への出席を増やしたい(と考えているが、どうなることやら)。
あめをが寄らせていただいた(リアルの)句会
ノマド句会(special thanks to Ryukichi-san)
ネット句会
恒信風句会、四童珈琲店忌日句会、小麦句会、俳句な毎日、オクンチ句会。

今年もいろいろとお世話になりました。遊んでいただいた皆様に、深く深く感謝。
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by tenki00 | 2005-12-31 07:53 | haiku

身辺人事

麦の前会長の田沼さんが、ある句会の総評で「人事句が多い。自然を心棒に」とコメントされたそうだ。ある掲示板でそのことが報告されていたので、「麦は昔から、人事句が多いっすよ。田沼さん、何をいまさら。言うなら、もっと昔に言えばいいのに」と書き込んだ。だが、この「人事句」という言い方は、ちょっと微妙なところも含んでいて、「ああ、そうですか。では、人事句はなるべく作らないようにして、自然を詠むことにします」ということにはならない。

俳句の世界では、身辺人事句と自然諷詠句と大別されるようだが、この句がどっちで、あの句はどっちという分け方は、可能だが、あまり意味のあることではない。また、大別と言ったが、どちらに入れていいかわからない句も(ごく少数だが)出てくる--言葉から出発して言葉に飛んでいくような句、あるいはまったく別種として、身辺人事と自然(季語)が合成された句(このパターンはわりあい多い。多くの場合、季語=自然は斡旋=取り合わせとして用いられるので、身辺人事句に入れていいのかもしれない)など。

もうひとつ、これはややこしいので、あとにまわすが、「自然」の意味。こいつがなかなか手強い。

また、ほとんどの人(俳人)は、身辺人事句も自然諷詠句もどちらも詠むので、「人事句が多い。自然を心棒に」と言われても、うまく理解できない。

だから、考えてみる価値があるのは、人事か自然かの二分法ではなく、狭義の「人事句」、つまり、なんとなく悪い意味で用いられる場合の「人事句」だろう。

ここでもうひとつ断っておかねばならないのは、田沼さんが「人事句が多い」とコメントされた背景が、悪い意味の人事句かどうかわからないということ。それと、この句会の季題は「サンタクロース」と「蒲団」だったそうで(なんでまたサンタクロース? どうでもいいけど、半世紀軽く超えて生きてきてサンタクロースはないだろ?とは言わないが、田沼さんにサンタクロースの句を詠ませるなよ。って田沼さんが出したのかもしれないな、あはは)、この2題なら、「人事句」が多くなるのは当たり前だろう。人事句じゃなく、サンタクロース、蒲団を詠むのは、かなり難しい。

話を戻す。悪い意味の「人事句」の話。これも人によって解釈がいろいろだから、一概には言えないという前提、というか言い訳は必要だが、まあ、私の把握に沿って前に進む。人事句という言い方は、しばしば「身辺人事に堕した句」「身辺人事に過ぎない句」というニュアンスを含む。

身辺・日常の「ある事」「あるモノ」をある字数でまとめて、それに季語をプラス。それで面白い(面白いというのは、いまさらだが、私が使う場合、広義。良いでも素晴らしいでもなんでもいい)場合もあるが、しばしば、「そんなことは日記に書いておけばいいこと」ということにもなる。

といって、自然諷詠に、その手のことがないかと言えば、ある。

一方、身辺人事に大別される句で、良い句はないのか?と言えば、ある。身辺人事に堕さず、身辺人事を超えて、「日常」を伝える句はあるはずだ。いっぱい見てるものね、そんな句も。

それではどこで、人を吸引する句になるのかと言えば、それは「見る」ことによってであると、いまなんとなく考えている。「写生」という古くからある言葉と関係あるかもしれない。ないかもしれない。とにかく「見る」。

よく、作句において「感じる」という言葉が使われるが、これはウソだと思っている。感じてはいけない。感じる前に、見なければいけない。思うのはもっといけない。思う必要などない。「思う」「感じる」は、「見る」ことの邪魔になる。

よーく見る、いろいろな見方でよーく見ること(インプット・入力)で、身辺人事に過ぎないモチーフにおいて、身辺人事に「過ぎなくはない」ことが、どこかから降りてくることがあるのだと思う。箸の上げ下げも、よーく見れば、「へえー!」とびっくりするようなことが、言葉として降りてくるかもしれない。衣かつぎがつるりと逃げたり、箸が迷ったり、噛み跡があったり、そんな句は五万と読まされる(作っちゃったりもする:冷や汗)。だが、よーく見れば、そんなわかりきって擦り切れたことではないことが、言葉として到来するかもしれない。

もうひとつ、身辺人事を扱って、結果として、それが日常そのものであるなら、なにも句にすることはない。日記に書くほどのことでもない。日常のなかの、あれれ?という瞬間。これは表現するのが難しいが、日常のようでいて、すれすれに非日常。俳句は、そこをすくいあげるのにふさわしい形式だと思う。まるっきりの非日常を描くのではなく(それには他のブンガク形式のほうにアドバンテージがあると思う)、ベタベタの日常そのものではなく。

もちろん日常を日常のまま叙するのを良しとする考えもある。そこに季語をくっつけて、はい、いっちょ。でも、それでは、日常という現実のもつ機微や複雑さを備えることはできない。ここのところ、むずかしく、また未整理だが、日常と非日常の「あわい」のようなことが「俳句」の「俳」なのだろう。こう言うと、前のエントリーの「人間」と「人間でないもの」の「あわい」みたいなものとも関連がないわけではないが、これを考えると、話がややこしくなりすぎる。やめよう。

つまり、身辺人事べったりに言葉を連ねても、身辺人事(日常)の機微は備わらないのだと思う。よーく見て、日常が1ミリ非日常に傾く瞬間、それが言葉として降りてくれば、面白いことになる。言い換えれば、ひとり日記に記しておくにはもったいない、素敵なこと。人が見て、いっしょに面白がれるような「句」になるのだと思う。

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付記として、「自然」のこと。

最近、当然のことに気がついた。自然というと「天然のもの」のように漠然と考えてきたが、俳句の場合「環境」と言い換えるほうがよい。例えば、道がいっぽん延びている。これは人事ではない(人が作った人工物だが)。人事と自然の大別を、人事と天然というふうに固定的に考えると、人が敷いた道は人事で(こじつけっぽいが)、獣道が「自然」ということになってしまう。花火そのものを詠んだ句なども、人事句とは(感覚的に)呼ばない。

だから、自然諷詠の「自然」は、私と私たちを取り囲むものということになる。だから、「環境」。

(悪い意味でないほうの)身辺人事もまた、環境といえば環境だが、そこは区別しておくほうが不便が少ない(このへんの論理は端折る)。

私を取り囲む「自然」には、「環境」には、大学通りの桜も含まれるが、そこを走るバスも含まれるかもしれない。草原の喪失を詠むように、豆腐屋さんの喪失を詠むかもしれない。まあ、これは「自然」のある意味、本来に戻るということでもある。私を包む自然と、誰かを包む自然、その構成物・明細は若干(あるいは、かなり)違っていて当然なのだ。

ともかく、自然イコール天然という把握は、わかりやすいが、あまりにナイーブで、(少なくとも私には)使い物にならない。

とすれば、最初の田沼さんの言葉、「人事句が多い。自然を心棒に」は次のように解釈できる(私は解釈し、自戒とする)。
「自分とその身辺そのものにへばりつくな。私たちを取り囲むものに目を注ぐように」。
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by tenki00 | 2005-12-30 00:53 | haiku

彼等

雪女郎のエントリで、コメント欄が充実。なるほどなあ、という感じ。

コメントに書き込んでもいいが、記事に。

人間は、人間そのものを内在的に定義できない。なーんて言うと、いかにもわかりにくいが、つまり、「人間でないもの」との対照でしか、人間を定義できない。「人間でないもの」ではないから人間である。もっとややこしくなったか。

人間というのは、まあ、いまでこそ地球上に暮らしているホモサピエンスとイコールだけれど、それは最近の話。アフリカに「テソ(族)」と呼ばれる人たちがいる。テソはテソ語で「人間」の意味。こういう例は多い。「人間」の範囲は、「人間」を名乗る者たちによって、遠近法的に限定されていた。コメント欄の東人さんの言及でいえば、里人にとって「人間」は里人であって、山人は、里人が「人間」たるがための「対照」なわけだ。

「人間でないもの」は、鯨や昆虫ではダメ。人間に近いものでないと、人間同定のための「対照」の役割を果たさない。

ここまで来て、「人間」は「われわれ」と言い換えてもいい。「われわれ」概念が、「わたし」を中心とする同心円構造をもつようになるのは、ひょっとすると最近のことかもしれない。「われわれ=里人」というひとつの集合で事足りたのかもしれない。こういうふうになると、かえってややこしいから、「人間」に戻そう。

人間を人間として定義・確定するために、人間でないものが召還される。雪女もそうだろう。海坊主もそうか。このへんは、生態の要素もからむ(暮らしの場所とその外にある世界)。ヨーロッパの妖精もこれにあたるだろう。

私が小さな頃、母親に脅されていた「子とり」や「サーカス」も、雪女に近いといえば近いのかもしれない。「言うことを聞かないと、子とりに攫われる。サーカスに売られる(売るなよ!)」。ひどい母親だな。

こうなると、定住(我々)と漂泊(彼等)の対照の層にも話は広がる。

日常のなかに、人間と人間でないもの、その境界面のしっぽのようなものを見せてくれるのが、彼等。そうであれば、俳句に雪女郎が登場したとき、そこから受ける感興も変わってくる。ただ、雪女というアイデア(観念)を持ち得ていない私が句を作るときは、それに変わる「彼等」を見いだすしかない。それは保険勧誘員かもしれないし、わけのわからない格好をした婆アかもしれない。明日から、いろいろな人をよーく眺めてみる気になってきた。
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by tenki00 | 2005-12-29 02:13 | haiku

好き句70 齋藤朝比古

まなこ閉ぢ嚔の支度してをりぬ   齋藤朝比古

少し前にユースケさんのブログのコメント欄に、この句を引いた。記憶だけに頼って引いたからウソを引いたかも知れぬと、書き込んでいる最中から気はなったが、この句を読んだ合同句集が出てこない。仕事場は、シノギの資料、好きで読む本、句集などが未整理に山積みで、欲しい本は探してもなかなか出てこない。

気になったまま、今日に至り、西東三鬼全句集を探しているとき、ひょっこり出てきた。めくってみると、私の引用は大嘘であった。もしその引用を朝比古さんがご覧になっていたとしたら、ピープーピープーと、やかんの如く怒り心頭であったろう(演出です。実際の朝比古さんはいたって穏やかで鷹揚な方です)。

そこで掲句。二度確かめたから、今度こそ正確な引用だ(ユースケさん、ハイクマシーンさん、そういうわけなので、この句、こうです)。

そこでふたたび掲句。私が何も語ることはない。引用のとき、普遍的なモチーフの例句として挙げた。作者のこの「まなこ閉ぢ」の一瞬は、あらゆる場所、あらゆる場所、あらゆる人との交換可能だ。槍もって飛び跳ねているマサイ族だろうが、今日は何のビデオ借りて帰ろうかなと思案しているプーチン大統領の側近だろうが、また食べこぼして叱られている幼稚園児だろうが、この一瞬の「まなこ閉ぢ」の興趣は変わらない。

この句を読んだのはもう3、4年前か。読んだ瞬間、私は、また数センチ、ずぶりと俳句の深みにはまったのだと憶えている。

炎環新鋭叢書『青炎』(光書房1997)所収
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by tenki00 | 2005-12-28 19:22 | haiku-manyuuki

オクンチ

オクンチは今年最後。
http://www3.ezbbs.net/03/0123/

■テーマ 「社会/政治/経済」 …1句以内
■テーマ 「文化/芸能/スポーツ」…1句以内
■ノンジャンル…1句以内

ううむ。どうすりゃいいの?というくらいむずかしい。社会とか政治とか経済とか文化とかということで句を発想したことがないからなあ。

時事に流れず、人事に堕さず。

ううむ、ううむ、の年末である。まだまだ労働は終わらんし…。

あ、みなさま、どうぞ、奮ってご参加を!
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by tenki00 | 2005-12-28 00:41 | haiku

雪女郎-ローカルということ

雪女郎・雪女の句は多い。でも私にはこの季題がよくわからないので、まず作らない。関西の片隅で生まれ育ち、そのあとは東京のはずれで暮らしているから、まったく実感がないのだ。だから、もしも句会でこの季題が出たとしたら、「雪女郎すごくふとつてしまひけり」などと、熟考5秒のバカ句で事を済ませることになる。雪に関するいくつかの季題もそう。先日、「雪合戦」という季題が出たが、これもあまり実感を見出せなくて、5秒で「八甲田山と化したる雪合戦」と短冊に書いて放り込んだ。

実感や体験のない季題はつくるべきではない、などと言うのではない。体験がなくとも、それを季題とのオリジナルな距離として堅持しながら、いくらでも作ればいいという融通無碍な考え。見たこともない「氷山」を詠んだりもする。ただ、「雪女郎」という季題は、「ちょっとした諧謔」として、とても気軽にたくさんの句が出てくる。それってそんなに面白がるほどのことか?という印象をもつことが多い。その程度の理由だが、作ろうかという気が実際に起きないし、きっとこれからも敬遠したままだろう。

ところが、先日、北国出身の俳人とお話させていただいたとき、興味深いことが聞けた。「雪女郎」は、「実感そのもの、体験そのもの」だとおっしゃるのだ。

雪の多いところで生まれ育った人にとっては、もちろんそうだろう。この当然の事実は、話として耳に聞くと、あらためて「そうか、そうなんだ、なるほどなあ」と納得できる。「夜話」なんていう季語も、私には実感がなかったが、その方にはそうではない。

そこで思い出したのが、去年の冬、秋田に行ったときに、田んぼに群がっていた白鳥だ。白鳥がこんなにカジュアルに景の中にあるのを見て、そのときもあらためて、びっくりした。そのとき御一緒させていただいた俳人にとって、白鳥は、日常であり、「白鳥来」は、屋根のすぐ上を飛ぶものであり、白鳥の鳴き声も、季節の到来を告げる自然の声なのだ。

ついでに思い出したのが、やはり冬に土佐にお邪魔したとき、句会で「冬向日葵」を詠み込んだ句がたくさん出たことだ。実際、向日葵がたくさん咲いていた。でも、この景にも句にも、またもや、あらためてびっくりしたのだった。

ローカル性というと味気ないが、暮らしてきた土地と時間、暮らしている土地と時間、それらと俳句は密接にならざるを得ない。自分のローカル性をどのように捉えるのか。それも、俳句をつくっていくうえでおもしろい課題なのだと思う。
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by tenki00 | 2005-12-27 18:59 | haiku

テレビと経済産業政務官

テレビはふだんあまり見ないが、おもしろい場面に遭遇するときもある。

筑紫哲也氏と佐高信氏が、TBS買収に関して、情報と広告(ジャーナリズムと広告媒体ということが言いたいのだろう)の峻別などという空論(テレビ会社のおなじみの保身的言い分)をくりひろげていたら、片山さつき氏(この人、ケンカはかなり強い)が明快に切って捨てた。

情報というなら、問題はコンテンツ。ところが現状は(コンテンツの)ディストリビューター。広告は電通が差配して、コンテンツ作りは外部の制作会社。ディストリビューターに過ぎないなら、その広告媒体としての価値に目をつけた買収は起こって当然。(要旨)

テレビ局、それも報道番組で、いちばん言ってはいけないことを言ってのけた。役所にいた人だから、テレビ会社・テレビ業界こそが、参入障壁で守られた許認可事業の最たるものという把握は、なにより当然のものとして持っている。何を言われたら痛いのかも知っている。そのうえで口にしたことは明らか。「このおっさんら、なにをしゃあしゃあと」。そう、カチンと頭に来たのだろう。

テレビにも、たまにはおもしろいことが起こるもんだ。
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by tenki00 | 2005-12-27 00:39 | pastime

ひさびさの歌仙

浮御堂連句掲示板で始まりました。
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by tenki00 | 2005-12-25 23:31 | pastime

論理への誠実さ

前に紹介した『文明崩壊』という本、これを読んで一番印象深いのは、著者ジャレド・ダイヤモンドの「論理(ロジック)への誠実さ」である。

論理に対して誠実な態度とは、まず、論理をていねいに積み上げる態度。みずからの意見や感情や思いを先立たせるのではなく、論理を、できるかぎりの細心さと熱意をもって、丹念に積み上げる。自分の言葉に反省的であることも必須。想像力と感受性をフルに駆動させて、みずからの論理を相対化して、修正を加えながら、論理を構築する。

論理に対して誠実な態度は、人の心情も視野に入れる。論理に(みずからの)心情は排除する一方で、論理の背景に(他人の、すべての人の)心情をしっかりと据えることを忘れない。論理のための論理ではないから。自分のための論理でも、党派のための論理でもないから。

だから、論理に誠実な言説は、エレガントである。それと同時に温かい。

一方、論理に対して不誠実な言説は、どうか? それには2通りある。1つは、論理に誠実であるための「能力を欠いた」言説。論理の構築力が決定的に不足し、自分の使用した言葉への反省(検証)ができない。もう1つは、(能力はあっても)誠実であろうとする「意思を欠いた」言説。みずからの(あるいは党派的)心情・意見の正当性確保の「ためにする」論理。しばしば強力ではあっても、エレガントでもなく温かくもない。両者ともに品性を欠き、前者は寒く、後者は冷たい。

ちゅうようなことを考えているうちに、この本、売れ行きがいいようだ。現時点で、アマゾン内第7位。あの『東京タワー』と競っている。凄い。
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by tenki00 | 2005-12-25 20:21 | pastime