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「俳句はアタマでつくるな」?

あめを:チャカチャンリンチャンリンチャンリン。
てんき:おっ、また来たな。
あめを:しかし、なんですねえ、ミョーなことを言う俳人さんがいますねえ。
てんき:いきなりか。まあ、いいや。ほお。どんな?
あめを:慣れてきたな。例えば!
てんき:はい、例えば?
あめを:「俳句はアタマでつくるな」
てんき:うん、聞いたことがある。
あめを:じゃあ、どこでつくる?
てんき:うううん、どこで、だろうなあ。
あめを:どこなんだろう?
てんき:トイレで、とか?
あめを:その「で」は違うな。明らかに。
てんき:じゃあ、暇なんで、とか?
あめを:その「で」はもっと違うな。つまり、アタマ以外ではつくりようがないんだ、哀しいことに。そりゃ、臍や足の裏が五七五を捻り出したら、たしかに面白いに違いない。でも、無理。いやでも、かったるくても、アタマでつくるしかない。
てんき:ううん、なんか屁理屈のような…。
あめを:ほお、屁が理屈を言いますか?
てんき:それが屁理屈やっちゅうねん!
あめを:わっ、古典的な展開!
てんき:話を戻そう。「アタマでつくるな」という言い方だ。
あめを:ま、言う人の気持ちもわかるんだ。アタマで苦労するからね、人間は。
てんき:それに、「アタマ」という語を単に言葉として使ってるわけだろう? 器官としてのアタマ、すなわち脳味噌のことを言ってるんじゃない。
あめを:そう。比喩としての「アタマ」だ。
てんき:この場合、言ってる人の「思い」が、その比喩に込められているに過ぎない。
あめを:そりゃそうだ。「アタマでつくる・アタマでつくらない」という、いかにもアタマでつくったスローガンを言ってるわけだ。しかし、その比喩、そのスローガンは、いかにも凡庸で古くさく、しかもかなり安っぽい。
てんき:まあ、心躍る比喩ではないわな。
あめを:俳句とアタマうんぬんを結びつける人は、きっと、アタマとそれ以外の身体が別々だと思ってるんだな。
てんき:言い換えれば、精神と肉体。
あめを:そう。この心身二元論は根深い。それに歴史的に長い。ところが、ボクらは、アタマとカラダが別々でないことを知っている。どちらかだけ一方がどうこうということじゃないんだな、これが。
てんき:うん、それはわかる。特に昔のインテリかな、そうした観念に取り憑かれているのは。何かを書く、例えば文芸はアタマ、土を掘るのは肉体、みたいな。
あめを:だから、物語のなかのインテリは、壁にぶつかると、土方のバイトしたりする。
てんき:まぐろ船に乗ったり、な。
あめを:何かを書くことも、土掘ることも、獣をつかまえることも、アタマ(精神)と身体が同時に機能した結果だ。
てんき:俳句も、アタマだけでつくりようがないし、アタマ以外だけでもつくりようがない。そう言いたいわけだな。
あめを:そう。もっとも、俳句をつくるという行為はアタマに偏重しがちではあるわな。一種のアイデア、言葉という抽象を扱うわけだから。でも、そこで「アタマでつくらない」というスローガンを持ってきて、打開になるとは思えない。
てんき:そうかもしれんな。
あめを:アタマという話題に関連して、右脳とか左脳とか言い出す俳人もいる。
てんき:あ、それも聞いたことがある。どっちかでつくるな、どっちかでつくれ、とかいった話。
あめを:どっちがどっちでもいいんだが、信じがたいのは、あんな通俗科学を、たとえ比喩としてでもスローガンに使う、そのダメさ加減だ。
てんき:右脳・左脳ねえ。うふふ。血液型俳句とまでは行かないが、まあ、ヘンなものを持ち込む俳人さんは、たしかにいるな。でも、信じている人もいるみたいよ。俳人かどうかにかかわらず。
あめを:もちろん脳の専門家じゃないから、よくは知らん。しかし科学の知識なんてなくとも、最低限の論理が理解できれば、右脳・左脳という器官と人間の思考や感受性とを結びつけるのがいかにバカバカしいかは容易にわかる。
てんき:うん、たしかにバカバカしい。
あめを:なにか(A)を司る箇所、これが脳のどこかにある。調べてみると、右脳にあることがわかった。別のもの(B)を司る箇所が左脳にあった。右か左か、どこかには在る。そこまではいいんだが、だからといって、右脳がAを司っているわけじゃない。左脳がBを司っているわけでもない。
てんき:そういうことだな。譬えで言えば、一箇所でしか発掘されていない鉱物Cがあって、その鉱山(D)が南半球にある。このとき、南半球が鉱物Cを産み出しているわけじゃない。
あめを:そう。その鉱山Dは、地球上にある以上、北半球か南半球のどちらに存在せざるを得ない。だからといって、どちらの半球に在るということと鉱物Cとは因果関係にない。
てんき:もっと簡単に言えば、パソコンを開けて、冷却ファンが右側にあるからといって、パソコンの右半分が冷却の役割を果たしているわけじゃないということだろう。
あめを:そう。右脳・左脳という通俗科学の二元論を、俳句をつくるときの比喩に使う、そのセンス自体、ずぶずぶに通俗だ。
てんき:うん、それはわかる。わかるけど、漫才にしては、ずいぶんと理屈っぽくなっちゃったね。
あめを:まずい。ともかく、「アタマでつくるな」とか「右脳・左脳」とか、ヘタな理屈を俳句に持ち込もうとすると、惨めなことになるということだ。
てんき:だからさあ、「アタマでつくるな」というのは、「ヘタに考えるな」ということと思えばいいんじゃないの?
あめを:うん。そうかもしれん。
てんき:まあ、そういうことで。
あめを:そういうことって、どういうことだ? まあ、いいや。また来るわ。
てんき:じゃあな、暇人。
あめを:暇人はなかろう? 都市下層民。
てんき:ほっとけ。
あめを:って、これやると、また始まっちまうでしょうが。
てんき:そうだった、そうだった。終わろう。気をつけてな。
あめを:ああ、また来るわ。
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by tenki00 | 2006-08-31 22:15 | ameo & tenki

「私にはつくれない句」?

あめを:チャカチャンリンチャンリンチャンリン。
てんき:おお!久しぶり。5月6日以来。
あめを:チャカチャンリンチャンリンチャンリン。
てんき:出囃子のつもりか。
あめを:しかしなんですねえ、ミョーなことを言う俳人さんがいますねえ。
てんき:あ、漫才なわけ?
あめを:そ。ミョーなことを言う俳人さんがいますねえ。
てんき:ほお、どんな?
あめを:その調子。その調子。例えば!
てんき:はい、例えば?
あめを:句会のとき、自分のとった句を「私にはできない句です」ってなことを言う俳人さん。
てんき:うん、ときどき、いるな。
あめを:誰もつくれと言ってない。
てんき:まあ、そうだ。
あめを:あなたにもつくれそうか?なんて、誰も聞いてない。
てんき:まあ、そうだ。
あめを:つくるれかつくれないか、こっちは知ったこっちゃあない。
てんき:こらこら、そんなことを言うもんじゃない。褒め言葉の一種として使ってるに過ぎないわけだ。
あめを:褒めてることにならんだろ? それにだな、失礼な話だぞ。ほかの句なら、自分にもつくれると言ってるわけだからな。
てんき:まあ、そういうことにもなるかな。「ぢやあどんな句ならつくれる秋の暮」というわけか。
あめを:おっと、五七五。
てんき:簡単にいえば、「自分病」ということでしょ? 他人の句を見てさえ、「自分なら」と考えてしまう。
あめを:なるほど「自分病」ね。
てんき:基本的に、俳人さんには「自分病」の人が多い。
あめを:うん、「自己表現」とか言い出すのは、みんなそう。
てんき:それとね、「こんな句、つくれない」というセリフには、場合によっては、もうひとつ、意味があるんだな。「つくりたくもない」という。
あめを:あはは。そうなの?
てんき:見てるとわかるが、そういうことを言う人は、自分とは違う作風の句を選んだときに、それを言うことが多い。だから、「自分につくれない」となるわけだが、それは「自分はつくらない」とも言ってるわけ。
あめを:ふうむ。なるほど。
てんき:いずれにせよ、選句というのは、自分がどうしたこうしたという話ではない。自分の作句と関連させても、こっちは「はあ、そうですか」だわな。キミの言うとおり、ミョーなことを言ってることになる。
あめを:そうだろう?
てんき:じゃあ、キミは、自分の選んだ句をどんなふうに褒める?
あめを:そんなこと、句によって違う。けど、原則はあるな。
てんき:ふうん、どんな?
あめを:口説くときの気持ちで褒める。
てんき:女性を?
あめを:うん、まあ。口説くうんぬんは遠い昔の話なわけだが、気持ちは、そう。口説くときの原則は、ひたすら褒めることだろう?
てんき:いや、まあ、それは人それぞれ。それはキミのやり方ということだろう。
あめを:なんて綺麗なんだ! なんて話のおもしろいひとなんだ! ひたすらそんな感じで口説かなかった?
てんき:……
あめを:まあ、いいや。句に向かっても、口説いているような気持ちで褒める。もちろん、欠点もあるけど、それもなかなか魅力的だとか。
てんき:句を口説いて、何のトクがある?
あめを:いや、トクになるから褒めるわけじゃないでしょ? 褒めたいから褒める、口説きたいから口説くわけで。
てんき:なるほど。それで句は喜んでくれるわけか?
あめを:残念ながら、それはわからん。句に反応があるわけじゃないからな。
てんき:そら、そうだ。
あめを:でも、精いっぱい誉めていると、その句をもっと好きになってくる。そういう「いいこと」はあるな。キミは、なにかあるのか? 選んだ句について何か言うときの決め事みたいものは?
てんき:ううん、急に言われても思いつかないが、後悔が多いな。
あめを:ふうん。自分の選評に?
てんき:うん。まあ、言い過ぎ、説明過剰の後悔なんだが、「なんとも言えず、いい」という句があるだろう? まあ、ほんとに好きになる句はどれも「なんとも言えず」なんだが、それを説明しようとして、自分が思ってなかったことを言ってしまう。
あめを:むりやり言葉にしようとして、失敗するわけだ。
てんき:そう。だから、選んだ理由を聞かれたら、正直に「なんとも言えず、いい」とだけ言うことにしたい。そうは思ってるんだが、句会の雰囲気もあるし、なんか言わなきゃと思って、言わなきゃいいことを言ってしまう。
あめを:口説き下手だな。
てんき:そこに帰るか?
あめを:好きなのは、そういうことが理由じゃないのに!と思いながら、それを説明しようとして、また失敗して、どんどん深みにはまる。
てんき:まあ、そういうことだ。
あめを:好きに理由はない。それを徹底させることだ。
てんき:うん、実際、理由はないからね。
あめを:脳天に一撃。それに始まりそれに終わる。前後に事情は何もない。俳句も、あ、あ、愛も。
てんき:どもるな、どもるな。恥ずかしいこと言うとき、言いよどむと、もっと恥ずかしくなる。
あめを:それでは、ここで、Kip Hanrahan の COUP DE TETE をどうぞ。
てんき:おい、漫才じゃなかったのか? なにディスクジョッキーやってる?
あめを:はい、脳天に一撃 Coup de Tete。間違ってたら、パリ大学だかソルボンヌだかの出の葉月さんが訂正してくれるだろう。
てんき:人の話、無視か。
あめを:ともかく、このネタ、またやろう。
てんき:どのネタ?
あめを:ミョーなこと言う俳人さんがいますねえシリーズ。また、考えてから来るわ。じゃあ。
てんき:じゃな、暇人。
あめを:暇人はなかろう。極貧! ってやると、また始まっちまうじゃないかよー。
てんき:なつかしいな、このパターンも。
あめを:もういい、ほな、シャイナラー。
てんき:おっ、平和ラッパで来たか。
あめを:うん、初代ね。
てんき:終わらんなあ、これ。
あめを:うん、終わらん。ほんとに帰るわ。
てんき:じゃあ、また!


あめを・てんきの俳句漫才の過去ログはこちら→http://tenki00.exblog.jp/i6
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by tenki00 | 2006-08-24 23:05 | ameo & tenki

表記は表記に過ぎないという基本的なこと

あめを:よお!
てんき:わっわっ、びっくりした。久しぶりだなー。
あめを:前回は1月15日だから、ほぼ4カ月ぶり。
てんき:相変わらず、暇人しているわけか?
あめを:暇人はないだろう。格差拡大社会のボロ負け組。
てんき:ほっとけ。って、なつかしいなあ、この導入!
あめを:ところで連休は?
てんき:家の近くでのんびり散歩したり、ちょこちょこシノギの作業があったり。
あめを:ふうん。まあ、連休の恩恵にあずかる階層ではないわな。
てんき:そのネタ、もういいって。あ、そうそう麦の会の収穫祭の句稿をまとめてたりもした。かったるかったなあ。
あめを:そんなもの、引き受けたのか。バカ。
てんき:うん、自分でもバカだと思う。
あめを:編集部からの命令か。弱者を攻めたてるのが巧い。
てんき:南志編集長は、大企業のエラい人だったから、人を虫けら扱いするのが巧い巧い。さすがだな。
あめを:感心してる場合か。しかし、暇人はどっちだ?
てんき:それを言われるとツラい。句稿の入力は人に頼んだが、最後にまとめるのは、自分でやるしかない。他人様の句も1000句近く眺めてると、俳句が嫌いになる。もう1句も見たくないという気になってくる。
あめを:ご愁傷様。
てんき:ルビを振るのは、自分でやったんだが、腹立ってくるなあ。MSワードのルビ処理はめんどうだし。そのうち、「なんでこんなものにルビを振る?」と句稿が腹立たしくなってくる。
あめを:あはは。
てんき:ルビ禁止にしたい。
あめを:言い訳みたいなルビもあるな。よくあるのが「亡父」と書いて「ちち」、「亡母」と書いて「はは」。
てんき:それとね、最近、気になってるのが、漢字とひらがなの書き分け。同じ句のなかで例えば「朧」と「おぼろ」と書き分ける。今回の句稿だけじゃなくて、俳句でときどき見かける。散文じゃ有り得ない書き分けだ。
あめを:「一人ひとり」という表記はずいぶん定着した。
てんき:散文でもよくやる。「人々」じゃなくて「人びと」と書いたりもする。そういう慣習が俳句にも広がったのかな? ちょっと不思議。
あめを:その場合の表記は、畳語だから、というわけだろう?
てんき:そう。俳句の場合、離れていても、書き分けたりする。例えば「朧からおぼろ」という調子。
あめを:なんでわざわざそんなことするんだろ? 流行なのか?
てんき:うん、不思議だね。でも、俳句で表記に凝る人は多い。
あめを:表記にも工夫してますって言いたいんじゃないの? 自己満足。
てんき:よくわからんが、歴史的仮名遣いか新仮名かが大きなテーマになるのも、俳句の特徴だ。
あめを:仮名遣いの新旧、キミはこだわらない?
てんき:どっちでもいい。自分がどっちを使うか、決めておけばいい程度。いい句は、仮名遣いの新旧にかかわらず、いい句だと思うけど?
あめを:逆に言えば、新仮名で書いたダメ句が、旧仮名になったとたんに良くなるってことは有り得ない。
てんき:そう。表記は表記に過ぎない。新旧仮名遣いにしても、さっきの「朧とおぼろ」にしても。
あめを:表記軽視派というわけか?
てんき:軽視、でもない。表記というのは、無頓着ではいけない、というか、もったいない。気を遣うべきだとは思うが、あくまで表記は表記に過ぎない。言葉には、かたちがない。それをたまたま文字として書き留めたのが表記。
あめを:うん。たしかに、言葉そのものはブツではないし、目には見えない。
てんき:声は、空気の振動だけど、それに意味を持たせるシステムは、目に見えない。
あめを:そりゃ、そうだけど、えらく根源的なところに行くなあ。
てんき:当たり前のことを言っているだけだけど、それを忘れると、妙に不毛な議論が出てきたりする。
あめを:例えば?
てんき:例えば、インターネットは、横書き俳句が蔓延するから、害になるという把握。
あめを:それで思い出した。「インターネットと俳句」というテーマで連載するとか言ってたな。それが第0回を書いて、それきりだ
てんき:あはは。思い出した?
あめを:いま、ここで、その続きをやるつもりか?
てんき:まあ、無関係ではない。俳句の横書き問題は、インターネットの絡みでよく出てくるんだけど。
あめを:縦書きでも横書きでもどっちでもいいという意見か?
てんき:いや。縦書きのほうがいいに決まっている。おそらく俳句が存在するうちは、縦書きのままだろう。また縦書きであるべき。
あめを:じゃあ、インターネットの横書きを非難する人と同じだ。
てんき:いや。ぜんぜん違う。表記に縦書きの歴史があるから、それはそのまま行くべき。インターネットは、ブラウザーが横書きだから、俳句が「横になっている」。ただそれだけの話。
あめを:なるほど。ブラウザーね。
てんき:インターネットと俳句のことをうんぬんする人は、インターネット=横書きと思っている人が多い。大間違い。情報にはタテもヨコもない。表記にタテとヨコがある。ブラウザーが、文字を横に並べる形というだけの話。ま、縦書きのブラウザーが世界中に広まっていれば、「俳句は縦書きでなくっちゃ派」の人は、そこを問題視しなかったかもしれない。
あめを:そんなブラウザー、広まるはずない。
てんき:そりゃそうだ。まあ、それは置いておいて、最初の話に戻る。言葉は物質ではないように、俳句も物質ではない。
あめを:言葉がインクの滲みではなく、インクの染みは言葉の表記に過ぎないのと同様に、という意味だな。
てんき:そう、俳句一句は、文字とセットにはなっているが、文字よりも先にあるものだ。目が見えない人にだって、いい句は瞬時に伝えられる。
あめを:声が先か表記が先かは、むずかしいところがあるが?
てんき:いや、目が見えない人の例は、表記されたものだけが句ではないという単なる一例。声(音)か表記(文字)かというより、むしろ、なにもかたちをもたない言葉として、一句がある。だから、いい句は、一瞬で気持ちよく飲み込める。目で見て読んで気持ちよかったか、誰かの声で聞いて気持ちよかったか。そんなことはたいして問題じゃない。言葉として魅力があるかどうかという問題。
あめを:なるほど、まあ、わからんでもない。しかし、俳句を作ったり読んだりの現実とは、ちょっと関わりの持ちにくいテーマではある。
てんき:そうかな。俳句を遊ぶとき、もし文字がなくても、俳句はあったんだろうか? とか思わない?
あめを:思わんなあ。
てんき:ボクは思うんだ。地球の歴史で文字のない文化はたくさんある。そういう文化にも、俳句的なものはあると思う。それは文字ではなく残っていたりするんじゃないかと考えたりするんだ。
あめを:俳人の多くは、そんなこと思わんね。日本には文字があった。そこに俳句が生まれた。だから、俳句は文字で表される。そう思うだけだろう。
てんき:それでもかまわないし、ボクが言っていることには飛躍があるが、言葉をたかだか千数百年で考えても、つまらない。
あめを:俳句くらいで大袈裟なやっちゃ。
てんき:あはは。それはそうなんだけど、実際に俳句に関わるときは、卑近に一週間単位くらいなんだけど、ね。でも、その背景として、広大な場所、長大な時間を考えるほうが、ボクにはおもしろい。
あめを:まあ、わかるところはある。表記は表記に過ぎない。言葉の歴史に比べれば、表記の歴史は浅い。言葉の人類的普遍性に比べれば、表記の存在はローカルだ。
てんき:ちょっとややこしいところもある話題だけどね。
あめを:そういうことは、この俳句漫才向き。キミがひとりで書いているより、ボクがフォローしてあげたほうが、よほどいい。不毛を避けられるというものだ。
てんき:そうかなあ。疑わしいが、まあ、いいか。
あめを:じゃ、またな。次のテーマ、考えとくわ。
てんき:うん、また。

収穫祭 参考記事(旧ブログ) 
http://sky.ap.teacup.com/tenki/272.html
http://sky.ap.teacup.com/tenki/289.html
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by tenki00 | 2006-05-06 23:20 | ameo & tenki

敗北宣言?

てんき:真面目・大笑、と書いたとたん、峠谷さんが「不真面目路線敗北宣言」だって。

http://green.ap.teacup.com/touge/394.html
http://6918.teacup.com/mamenoki/bbs(1月15日(日)19時39分34秒の書き込み)

あめを:ふうん。どこかからメールで攻撃を受けたか?
てんき:敗北も勝利もないんだけどね。勝負ごとじゃないんだから。
あめを:だいたいにして、峠谷さんはそんなに不真面目じゃないのでは?
てんき:はい。御自分で言われるほどには。
あめを:いつもの峠谷さんネタでしょう。
てんき:自虐ネタ? うん、そうかも。では、ふたたび、不真面目に乾杯! 
あめを:大真面目俳人(大笑)にも乾杯!
てんき:はいはい、番茶で乾杯!
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by tenki00 | 2006-01-16 22:40 | ameo & tenki

真面目と不真面目

あめを:よお!
てんき:おっ、来たな。年が明けても暇人してるか?
あめを:暇人はないだろう。ど貧民。
てんき:ほっとけ。…ってゆうか、「ど」という接頭語、なつかしいなあ!
あめを:関西人は何にでも「ど」を付けるからな。それはそうと、今年一発目の俳句漫才なんだが、峠谷さんウォッチャーとしては、そのネタから始めたい。
てんき:うん。それは、いいかも。
あめを:峠谷さんがめずらしく吠えていらっしゃる。ブログのこの記事。
http://green.ap.teacup.com/touge/392.html
てんき:ふむふむ。
あめを:いろいろ面白いネタが詰まってるだろう? これをちょっと検証してみたい。まず「狂信的に真面目」俳人というやつ。峠谷さんの記事を、まず引用、ネ。

真面目なのはいいけど、あまりにも「狂信的に真面目」俳人になるのはどうか?こういう俳人って笑いや冗談が嫌いな人で(中略)自信過剰で、正義は我にあり!という態度(中略)女性にも、こんなタイプの俳人がいる。実は、このブログで、半分冗談で、「愛国俳句婦人会」と言っている(後略)

てんき:なるほど。愛国かどうかは別にして「俳句婦人会」というのは、なんとなくわかる。峠谷さんの言う「狂信的に真面目」な俳人は、どちらかというと、女性に多い気がする。
あめを:おいおい、決めつけていいのか?
てんき:気がするというだけ。俳句を「ブンガク」と思いたい人も、ひょっとしたら女性に多いのかもしれない。
あめを:たしかに、俳句をやってて「勉強」という言葉を口にする女性は多い。
てんき:それは言い方、表現の問題だろうけど。
あめを:だがな、「狂信的に真面目」というだけでは、もうひとつはっきりしない。俳句に「正義」なんてないし、だいだいが俳句とは不真面目なものだろう? それをわざわざ真面目に考えるというのは、どういうことだろう?
てんき:不真面目というより、「真面目さに硬直化することなく」といったほうがいいか。まあ、それが俳句ということだと思う。
あめを:なのに、狂信的に真面目とは、どういう事態だ?
てんき:教養主義。かなあ。一種の。
あめを:俳句に教養主義を持ち込みたがる?
てんき:まあ、ひとつには、ということだけど…。あ、そうそう。聞いた話だけど、田沼さん、麦の会の前会長が言うには「俳句をつまらなくするのは、女と教師」だと。
あめを:ふうん。ずいぶん思い切ったことを言うもんだ。
てんき:そう。麦の会は半分以上が女性だ。おまけに学校の先生だった人も多い。さらには、主宰の故中島斌雄も大学の先生。
あめを:あはは。なるほど。でもね、麦の会でなくても、俳句愛好者の過半数、ひょっとすると7、8割は女性かもしれない。それを敵にまわすか。
てんき:うん、楽しいセリフを吐くよなあ。この話を教えてくれたのは、大ベテランの仁さんなんだが、その仁さんが、こう言うんだ。「田沼さんはそう言ったけど、俺はね、俳句をつまらなくするのは芭蕉だって言ったの。そのほうが、的を射ているんだ。女性も先生も、芭蕉好きだからね」って。
あめを:なるほど。女性と教師と2つ挙げるより、芭蕉1つのほうが簡潔だ。
てんき:お二人とも、女性、ガッコのセンセ、芭蕉を攻撃したいわけじゃない。つまり、俳句のもつ「教養主義的に退屈な側面」を言ってるんだと思う。
あめを:なるほど。だが、教養主義と女性は、どう結びつく?
てんき:歴史的には、教養との位置関係で、女性のほうが男性よりも遠いとこにいた。本質論じゃなくて、社会的にね。
あめを:ジェンダー論?
てんき:そんなカタカナ持ち出すことはない。昔は、女性のほうが忙しくて、教養なんて寝ぼけたことにかかずらわっている暇がなかったわけだろう。かあちゃんはたくましく家を支えた。跡取りを生んで育てて、おまけに家事や家業まで支えた。教養は、カネと時間に余裕のできた男たちが弄ぶものという感じが強かったんだと思う。
あめを:教養から遠いところに置かれてきた女性は、教養への渇望が強くなる。
てんき:そう。歴史的にね。だから、俳句などという文芸の端くれを始めるときも、教養と結びつく。
あめを:そうかもしれない。やたらと求道的であったりする。だが、男性俳人にも、そういう態度がないわけじゃない。
てんき:そういう場合、中身は女性なのだと思うことにしている。オジサンあるいは爺さんの皮をかぶったオバサン、婆さん。
あめを:ふうむ。俳句における教養主義=女性性、という把握は、ちょっと乱暴だが、最初に話していた「俳句婦人会」という峠谷さんの指摘に結びつく部分では、まあ、そうかな。
てんき:主宰絶対、自分が所属する結社最高という、狂信的真面目に固まってしまった俳人、というのが、その一典型かな。
あめを:じゃあ、不真面目な女性は? これも存在しないわけではない。
てんき:話のわかる女性ね。この場合、中身はオッサンかな?
あめを:ほんとかなあ。
てんき:テキトー、テキトー。
あめを:まあ、しかし、俳句を徹底的に不真面目に扱う態度というのも、それはそれで大変だと思うが。
てんき:そうかな。難しく考える必要はない。例えば、俳句について声高に「べき論」を唱える言説に対して、冷淡なスタンスをとる。それだけで、俳句的不真面目を全うすることにはなると思う。付け加えるなら、ナイーブな精神論、内実のない美学的審美眼、論理のない批評、それらに対しては、ふつうに知的であること。だたそれだけで冷静な距離が置ける。
あめを:知的?
てんき:その場合の「知的」は、別に特別なことじゃない。「井の中の俳句」の外側では、ふつうにやりとりされているセンスやロジックと思えばいいと思う。
あめを:ふうむ。峠谷さんの咆吼とはすこし違うとこに行っちゃった感もあるが、まったく別の場所でもないな。
てんき:まあ、これはあくまで個人の問題。真面目と不真面目も、その中身は、ボク個人が腑分けして把握したものに過ぎない。でもね、峠谷さんがおっしゃった「俳句婦人会」、これには「オバサン男」も含めて、いま話したようなことが関連すると思う。
あめを:「オバサン男」は権力闘争が好きなんだな。
てんき:だから、俳壇活動が大好き。
あめを:なるほど。
てんき:ただ、ひとつ断っておかねばならないのは、俳句を作るのに、また読んで楽しむのに、性はあまり関係がないということ。ボクは社会的にはオトコだが、オトコとして俳句を遊ぶわけじゃないからね。
あめを:それはそうだな。俳句以外の周辺事情で、「俳句婦人会」が活躍する。
てんき:結論的には、俳句なんぞに、そんなにめくじら立てて、きいきい言いなさんな、俳句くらいで、眉間に皺寄せなさんな、ということなんだけど。
あめを:だから、峠谷さんがブログで、自嘲自虐の「不真面目・堕落」を装った記事を展開しても、それを咎める必要はない。
てんき:そうそう。きっと、そういう婦人会は、峠谷さんのブログなんて読んでないと思う。「峠谷さんて、かわいい!」と思いながら読んでる女性、「不真面目」を理解できる女性が読者なんだと思う。
あめを:つまり、めでたし、めでたし。
てんき:時期は遅いが、新春らしい締めかな?
あめを:まあ、そういうことにしよう。
てんき:峠谷さんの不真面目に、ボクらの不真面目に、乾杯!
あめを:乾杯!…って言っても番茶じゃなあ。
てんき:はいはい、番茶で乾杯!
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by tenki00 | 2006-01-15 22:49 | ameo & tenki

擦り切れた語・擦り切れたセンテンス

あめを:よお!
てんき:来たか、暇人。
あめを:暇人はないだろう? 下流社会の一典型。
てんき:ほっとけ。ところで、今夜は何の話だ。
あめを:うん、年末特番の前にひとつ、オトナな「語」・コドモな「語」という前のエントリを片づけておきたい。あれだけじゃ、言葉足らずだろう?
てんき:まあな。
あめを:キミひとりに俳句を語らせるとロクな事がない。やっぱりボクがいないとダメだな。
てんき:ほんとかなあ。話がややこしくなるような気もするが、まあいい。どこを補足してくれる?
あめを:オトナな「語」という捉え方はいいんだが、同時に擦り切れの激しい「語」もある。
てんき:例えば?
あめを:まあ、これには「俳句においては」という限定がいるとは思うんだが、例えば「故郷」「命」「魂」……。
てんき:なるほど。
あめを:イメージ喚起力の大きな語は、ある部分で酷使されるから、どんどん消耗していく。例えば、「魂」という語を真正面から技も笑いもなく句として扱っても、ろくなことは起こらない。「故郷」もそうかな。それだけで人の気持ちを吸引するが、安易な広告看板にしかならない場合も多い。
てんき:例で挙げたのは、抽象語かつ使用頻度の高い語だな。
あめを:すでに人間の頭(意識)という加工過程が入っちゃってる語は、危ない。「人生」というのもそうだろう? いまどき演歌かバカなオヤジの自費出版本のタイトルくらいしかお目にかかれない。擦り切れ語の典型だな。
てんき:俳句に「人生」という語を詠み込むなんて、誰も考えない。
あめを:そう。ただし、ときどき「人生」を使ったバカ句を見かける。さっき見たぞ。「俳句な毎日」で。
てんき:あはははは。ボクの句ね。
あめを:「湯豆腐や人生ぜんぶ変化球」。ここまでバカなら、認める。
てんき:いやあ、そう言われると照れる。
あめを:安心しろ。世間は認めない。
てんき:あ、そう。久保田万太郎を超えたかな?
あめを:それは知らん。超えなくていいよ、そんなとこ。
てんき:あ、そう。
あめを:キミの生涯の一句と言われたら、この句を挙げるといい。実際、変化球ばかりだからな、キミは。シノギも俳句も音楽の趣味も生活全般。だから、誰かに色紙を書いてくれと頼まれたら、ま、そんな機会はないだろうが、この句を書けばいい。
てんき:それ、誉めてる?
あめを:冷静に叙述している。ところで、りゅうさんのコメントがおもしろい。てふてふさんにいったん同調した。
てんき:ああ。てふてふさんがうまくいじってくれた。そこへ、りゅうさんは、いい人だからね、句を拾い上げる態度で臨むんだ。
あめを:でも、「冷静に考えると、こっちのほうがいいな」と別の句にコメントを付けておられる。
てんき:あはは。バカバカしさに気づいて、「こりゃまずいな」というわけだ。
あめを:まあ、ともかく、キミの代表句、今年一番の句が生まれてよかった。でもね、もっとバカバカしくて、もっと巧い句がある。「とげとげのぼたぼた人生馬糞海胆」(なむ)。
てんき:おお! それがあった。
あめを:試しに「人生」で俳句検索してみるか。
てんき:さすがに純粋のバカ句はないが、うまく人生をおちょくった句もある。
あめを:真正面から人生!という、いわゆる「痛い」句は少ない。
てんき:すごく「痛い」句もあるから怖いが。
あめを:まあしかし、予想したよりは少ない。さずがに「人生」という語を使うときは、そのへんには気を配るわけかな。
てんき:話を戻そう。人生を語ってるわけじゃなかった。「語」は成熟の一方、擦り切れという問題もあるというところだった。
あめを:話が別の方向に行ったが、収穫もあった。擦り切れた語も、使いようによっては、あるいは、その擦り切れ感を逆手にとると、おもしろい句もできるということだ。
てんき:なるほど。
あめを:一方、物体をさす語は、擦り切れにくい。「林檎」とか「川」とか。ところが、それも、使いようによっては擦り切れ感が出る。
てんき:語と文脈という問題だな。
あめを:林檎と汽車、林檎と故郷。こういう組み合わせは、はじめて俳句に詠まれたときは、それなりの価値もあったのだろうが、「詩」として酷使された結果、双方の語が擦り切れてしまう。
てんき:常套の組み合わせというやつだな。以前、戯れに五七五にした。「花林檎見えて必ず汽車ぽっぽ」。
あめを:高い建物と「鳥雲に」「鳥の恋」なんかもそう。「煙突が立てば必ず鳥雲に」。生命と月なんかもそう。「妊娠後出産月が出てをりぬ」。死のモチーフと曼珠沙華なんかは、常套以前の「さすがにそりゃナシよ」のはずだが、いまだに目にする。
てんき:まあ、そういう使い古された組み合わせは五万とあるはずだ。そのへんをうまくかわしながら、擦り切れ感を避ける。理想を言えば、大昔からあるはずの語が、いま生まれたかのように新鮮に響く句が、いい句ということにもなる。
あめを:そう。語の擦り切れというより、文(センテンス)になったときの擦り切れが問題なわけだ。センテンスのひとつが俳句。林檎という語がひとつきりあるあいだは、それだけのものだ。そこにもうひとつ言葉が加わったとき、何かが起こったりする。言葉の反応だ。
てんき:ふむ。
あめを:2つの言葉がぶつかると、「詩」が始まったりする。「俳句」が始まったりもする。そのとき、新鮮味のない中年夫婦のような組み合わせだと、どっちの語も擦り切れ感バリバリとなる。
てんき:その中年夫婦の譬えこそが擦り切れ感! いやだなあ、それ。
あめを:わかったわかった。あやまる。ともかく、どうやって、語を擦り切れさせずに、言葉を遊んでいくかが俳句。
てんき:そこが俳句の難しさ、俳句の面白さということだな。
あめを:そういうこと。じゃ、そろそろ晩飯にするか。
てんき:食べてくわけ?
あめを:yuki氏~、おかずは何~?
ゆ き:湯豆腐と昨日の鮭はらす。
あめを:おお、質素な晩飯だなあ。さすが下層民。
てんき:ほっとけ。
あめを:鮭の皮のような人生。
てんき:おたがいにな。
ゆ き:そこ片づけてくれる? バカ話はそれくらいになさいね。
あめを・てんき;はいー!
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by tenki00 | 2005-12-13 19:55 | ameo & tenki

俳句というのは、なんだな、すごく恥ずかしいな

あめを:よお!
てんき:おっ、来たな、暇人。
あめを:暇人はないだろう、生活の不自由な人。
てんき:ほっとけ。って、この導入、なんだか落ち着く。
あめを:基本に戻るということだな。
てんき:基本、フォ~!
あめを:まだやってるか。やめろ。それより「含羞」だ。急遽、今夜のテーマ。
てんき:ふむふむ、前エントリのコメント欄ね。
あめを:あの話の脈絡からは唐突だな。話が飛んだ、ということは、含羞ということがキミの中に長く居座っているという証拠だ。
てんき:ヘタな分析。
あめを:そうかな。俳句における含羞。俳論にはならないが、ボクにも興味がある。
てんき:単純な話、恥ずかしくない? 俳句を作っていて。
あめを:恥ずかしいな。
てんき:そうだろ?
あめを:出来不出来にかかわらず恥ずかしい。
てんき:そうだろ?
あめを:第一、五七五というのが恥ずかしい。
てんき:うん、しばしば感じる。
あめを:五七五の恥ずかしさの理由というのが、最近、わかった。
てんき:へえ、なに?
あめを:子どもの頃、炭鉱節とか聞いただろ?
てんき:ああ、テレビでね。
あめを:♪月が出た出た、月が出た…あれ、聞いてて、どう思った?
てんき:凄く恥ずかしかった。
あめを:そうだろ?。ボクもそう。これはね、かなり根っこの部分の恥ずかしさなんだな。ここにこうやって生まれてきちゃったっていう…。五七五は、その部分を意地悪く刺激する。
てんき:日本人?
あめを:それもあるが、もっと普遍的なもんだな。言葉という共同性が恥ずかしい。
てんき:あはは。そこを突き進むと、何もしゃべれない、何にも耳を貸さないということになる。
あめを:うん。人間が恥ずかしい。な~んて言うと、話がややこしいから、俳句に戻そう。五七五は、しばしば、凄く恥ずかしい。にもかかわらず、キミもボクも五七五で俳句を作っている。
てんき:そうだな。五七五音の定型はかなり意識している。もちろん、六七五やら七七五やら七五五やら、ヴァリエーションはあるけどね。
あめを:なぜだ? いわゆる破調、自由律とまで行かなくても、いわゆる五七五からもうすこし自由なリズムもある。
てんき:ううん。そういうのもアリ。そうは思うが、基本的は五七五を意識する。
あめを:だから、なぜ?
てんき:パンツかな。
あめを:パンツ?
てんき:うん、五七五は「これは俳句ですよ」というサイン、というかエクスキューズ。それをはずしてしまうということは、ボクにとって、パンツも脱いでしまって、すっぽんぽんみたいな感じがする。
あめを:なるほど。定型は、裸寸前の最後の一枚。それをはずすと、丸裸で「詩」みたいなものに向き合うことになるということか。
てんき:うん、それは今のところ、したくない。「定型というパンツくらい履かしてくれよ」という感じかな。
あめを:五七五のことはわかった。俳句そのものの恥ずかしさについてはどうだ?
てんき:それはむずかしいなあ。なんでだろう? キミはどうなんだ?
あめを:むずかしいね、説明するのは。ヘタならヘタで恥ずかしい。俳句にちょっと慣れてきて、そこそこうまく行ったときも恥ずかしい。これは難儀だなあ。でも、俳句は続けている。
てんき:しかし、ちょっと考えてみると、そういう自分の中のハードルがあるからこそ面白いという側面はあるのかも。ちょっと抵抗がある。だから遊びにコクが出る。
あめを:なるほどね。そこで聞きたいんだが、キミの言っていた「俳句における含羞」ということだ。実際に出来上がった句に含羞があるかどうか。含羞のある句が好きと言っていたね。ボクもそうなんだ。でもね、自分で俳句を恥ずかしいと思うことと、作る句に含羞があるかどうかは、別問題だろう?
てんき:そう、それは問題でね。俳句が恥ずかしいと言いながら、作る句に含羞のカケラもないという場合がいちばん怖い。やっかいだ。自分の句が、それを免れているかどうか、それはどうにもこうにも心許ない。
あめを:あはは。それは恐怖だなあ。
てんき:どうなんだろう?
あめを:え? ボクに訊いているわけ? それは知らないなあ。ひとりで悩め。
てんき:ううん、悩み続けるしかないか。
あめを:含羞を感じる俳人に、なむさんを挙げていたな。
てんき:わかりやすい例だろう?
あめを:含羞というのは、しかし微妙な要素だな。
てんき:ああ、人によって感じ方は違うだろう。
あめを:じゃあ、含羞を感じない句は?
てんき:それも具体的にはむずかしいが、例えば、しょっちゅう感動する人がいる。
あめを:いるな。
てんき:感動を伝えるのが俳句、みたいな言い方さえある。
あめを:どうということもない出来事を「ほらほら」と見せてくれようとする句があるな。
てんき:ま、どうということもない出来事が面白い場合もあるんだが、それを話すとややこしくなる。ともかく、その「ほらほら」というスタンスには、含羞はないな。
あめを:うん、それはわかる気がする。
てんき:こんなこと、他人様に話していんだろうか、読んでもらっていんだろうかという感覚が真っ当だと思う。
あめを:なるほど。
てんき:それに、実際、そんなに感動なんてするものでもない。
あめを:もっと原理的には、自分が感じたということと、俳句をつくるということの間に断絶というか距離があるはずなんだ。
てんき:そのとおり。「感じたことを俳句にする」というのは、ちょっと違うと思う。
あめを:だからね、さっきの脈絡に戻せば、「感じたことを句にする」「感じたことを伝えるのが俳句」と疑いなしに句を作っている人には、きっと含羞はない。そういうことだろ?
てんき:まあ、「感じる」という語ひとつとっても、人それぞれ。その点の困難さもあるから、ややこしいけどね。
あめを:ただし、感じることと句をつくることの間にある距離や壁、それを乗り越える方法はいろいろありそうだ。そこで「含羞」もまた、えいや!と飛び越えるための一要素ではあるような気がしてきた。
てんき:それはそうかもしれない。含羞は、言葉にウソをほどこす。言葉というウソに、二重塗りみたいに。
あめを:今夜はずいぶん話がややこしいほうに行くなあ。まあ、いいや。そういうことかな。言葉は「虚」だという理屈っぽい話は置くとしても、どうウソをつくかという話?
てんき:いや、むしろウソを前提にできるかどうか、だろう。虚構というのではなくてね。
あめを:また、別方向に話がややこしくなった。
てんき:だったら、下世話な話にしよう。句会なんかで、自分の句について「だってほんとにこうだったんだもの!」と言う人がいるだろう?
あめを:ときどき見るね。
てんき:それ聞いて、どう思う?
あめを:「ほんとのことを句にするなよ、ウソくらいつけよ」。
てんき:そうだよな。ボクもおんなじ。
あめを:「え? ほんとのことを句にするなんて、そんな恥ずかしいことしてるの?」。
てんき:そう、そう思う。含羞のない作句態度。
あめを:あはは。なるほど。しかし、今夜の話は、核心のまわりをふたりで遠まきにぐるぐる廻っているような話だな。
てんき:いつものことだけど。
あめを:まあ、そのいうアプローチしかできないんだろうな、ボクらは。
てんき:そう、核心なんて、恥ずかしい。
あめを:また、そこに行く? もういいって。それより喉が渇いた。
てんき:フォートナム&メイスンのアールグレイだったっけ?
あめを:おう。気が利いてるな。あるのか?
てんき:ない。
あめを:じゃあ、なんでもいいや。寒くなってきたなあ。
てんき:ああ、寒くなってきた。
あめを:……こういうシメ?
てんき:たまには、こういうのもいいでしょ?
あめを:そだな。冷えるな。
てんき:ああ、冷えるな。
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by tenki00 | 2005-11-19 01:20 | ameo & tenki

探求じゃなくて、再認に過ぎなかったりしてね

あめを:よお!
てんき:おっ、また来たな。
あめを:話の続きがあるような気がした。
てんき:うん。いくつか展開があった。「私」の露呈にはうんざり。そんな個人的な感想みたいなところから、ちょっと別の方向だが、きわめて興味深い展開だ。例によって、たらたらとしゃべるか。まず朝比古さんのコメント欄への書き込みで、技術面というか実作面で整理がついた。
あめを:枝葉だが面白かったのが心情/真情吐露パターン。
てんき:峠谷さんがさっそく豆の木掲示板で実践されている。
あめを:恐怖の「季語+真情吐露」俳句。「鳥渡る他の結社に好きな人」ね。
てんき:あはは。こんな句なら、別にうんざりもしない。おしゃべりみたいなもんだから。
あめを:うんざりするのは、胸張って、句会や句誌で出てくる句、ということだろう?
てんき:そう。それに、例によって、厳格主義じゃないから、すこしの工夫があれば、充分に愉しんで読める。
あめを:すこしの諧謔。あるいは自己戯画化。
てんき:そうそう。それと裏切り。アリモノのイディオムでも、オチがあれば愉しめる。ところが、オチなしで、季語で締めちゃう場合がある。「え? オチは?」。関西人でなくとも、面食らってしまうはずだ。
あめを:ただね、キミのように、俳句にサービス精神を求める態度はあまり一般的じゃないかもしれない。
てんき:うん。だから、一般的な話をするつもりはない。単なる感想、というと逃げているみたいだが、「俳句というものは…」なんて論じるつもりはないわけ。現状、俳句の最も退屈な部分。その一例についての雑談だ。
あめを:ふむ。そう言っておきながら、俳句を読むのは愉しいなんてことを書く。
てんき:前の記事「俳句の詰め合わせ」か? それはそうだろう。俳句には愉しい面はたしかにある。
あめを:まあ、それはいいや。次の話題に行こう。たじまさんの記事。これはラディカルだぞ。根本問題だ。
てんき:そう。生半可じゃ語れないが、あえて生半可にしゃべろう。
あめを:なんじゃそりゃ。
てんき:ちょっと整理ね。俳句には2つのフェーズ(局面)がある。①「見る」⇒ものを見る。②「つくる」⇒俳句を組み立てる。 季語は①では、ものを見るフレーム(枠組み)に、②では素材になる。これが前提。
あめを:「真情吐露+季語」俳句の背景として、たじまさんが挙げるのが2つ。人間探求派以降の「人生」への傾倒傾向、そして2つのフェーズへの意識が希薄になってしまった現況。
てんき:ひとつひとつ思ったことを言うけど、まず、2つのフェーズのうちの前者、特に季語が「ものを見る」ときのフレームになるという話が、なるほど含蓄。
あめを:ちょっとむずかしい話だな。
てんき:ここは、たじまさん自身のもすこし詳しい話がほしい。
あめを:「豆の木」次号にでも書いてもらえば?
てんき:うん。提案しよう。ま、それはそれで楽しみにすることにして、ここは最もラディカルな部分だから、また改めてにしたい。
あめを:なんだ。肩すかし。
てんき:今夜は、「真情吐露+季語」俳句の背景。季語が素材にだけ扱われるという傾向。それをまず。
あめを:これは比較的よくわかる話だな。
てんき:うん、それを話す前に、ひとつ前提としておきたいのは、季語を広義に捉えたい。歳時記に載っている語彙集というではなく、季節を指し示す、あるいは代替する事物。そうじゃないと、季語は、「誰かが恣意的に選んだもの」「京都の季節変転を基準にしたに過ぎない」とかいった些末な横やりが入る可能性もある。
あめを:なるほど。まあ、もっともだ。たじまさんの論は、そんな形式論とは無縁だからな。
てんき:そのうえで、素材としての季語という話は、自分の場合も考えても、「ううむ、そうだなあ」という感じ。
あめを:これは「真情吐露+季語」俳句に限らないな。
てんき:「季語の斡旋」という言い方がある。まず、季語以外の部分が出来上がって、最後に季語を斡旋してくる。実際、よくやる作り方だ。
あめを:そうなると、たじまさんの言う「ものを見る」枠組みとしての季語の働きは皆無に近い。
てんき:季語と季語以外の部分なんて分けるほうがおかしい。心の働きとして、季語とそれ以外が合わせて同時に出来上がるのが本来だが、実際には「最後に季語をぽんとくっつけて」という作句手順になることが多い。そこでだ、人間探求派。
あめを:うん。「人生」が俳人の関心事になっちゃった。
てんき:花鳥諷詠で、ほんとにいいのか?という疑問は、歴史上のある地点で出てきて当然だ。
あめを:そこで「人間探求」。しかし、なんでそこから「人生」に行く?
てんき:まあ、それはそれでいいんだと思う。ただ、現時点での真情吐露モチーフが人間探求の流れを汲むとしても、それが退屈なのは、それらが「探求」になってないからなんだと思う。「再認」なんだ、きっと。
あめを:なるほど。伝統的な人間観の再認。
てんき:人生だとしたら、集合的にパターン化された人生の再認。
あめを:なるほど。人生や暮らし向きは、本人がオリジナリティを感じているほどには、オリジナルじゃない。
てんき:ここで面白いことが起きる。何かを人に伝えるとき、オリジナルなものは伝わりやすい。簡単な例で言う。他人の話のなかに、自分が思ってもみないこと、理解不能に見えることが含まれていると、耳を傾ける。ところが、オリジナリティのないものに、人は耳を傾けない。「それはもうわかった。百年前からみんな知っている。だから、別の話をしてくれ」ということになる。
あめを:アリモノの人間観や人生観には、人は興味を持たないということだな。
てんき:俳句における「人間探求」がどのくらい真の意味で「探求」だったのか知らない。まあ、勉強不足。でも句が「探求」であることは難しい。人間や人生をモチーフにした句を、句会とかといった下世話なレベルで見ていると、どうもそうではない。「再認」が共感を呼んでいるように思える。
あめを:「わかる、わかる」というやつだな。テレビの公開録画で、おばさんたちが「ああ、ああ、うん、うん」と声を揃えて感心している景色だ。
てんき:そういった意味で「わかる」ということが、俳句の面白さに結びつくとは思えないんだな。これはまあ、単に好みとか趣味といってもいいんだが。
あめを:だが、待てよ。ふつうなら耳を傾けてもらえないオリジナリティのない話が、俳句では共感を呼んでウケるというのは、どういうわけだ?
てんき:ひとつには五七五という制約だろう。よくぞ定型にまとめた、という部分。
あめを:手習いだな。
てんき:うん。べつに俳句は手習いごとでいいと、個人的には思ったりもするんだが、ともかく、「ふだんから自分も思っていること、思い当たることが、五七五にまっとまっている」という感じかなあ。
あめを:人間探求派について、その検証なしにものを言うのは、ちょっと怖いが、「看板」という感じがしないでもない。
てんき:もちろん、人間を詠むな、人生を語るな、と言うのではないよ。面白くやってね、という、それだけの話。最初に戻るけどね。
あめを:言いたいことはわかるが、ひとつ指摘しておこうか。
てんき:何?
あめを:キミの話は、退屈な句、言い換えれば失敗した句を仮想して、それを前提に成立している。それはあまり幸せな話じゃない。
てんき:ううむ。それは言えるな。
あめを:成功例だけ取り上げる、言い換えれば愉しめる句だけを取り上げて愉しむ。つまり、前の記事のように、いかに俳句を美味しく愉しむかという部分が大事だね。
てんき:もちろんそう。使い古された把握や感興、それを追認するだけで終わってはならないというのは、自分自身の作句上の指針。
あめを:そう。その問題も突き詰めると、なかなか難しいけどね。
てんき:精進、精進。しかし今夜もとりとめないなあ。
あめを:ま、しかたないでしょ? よくわからんまましゃべってるわけだから、
てんき:でも、わかってたらしゃべる必要もないわけでね。
あめを:それも言える。じゃ、そろそろ。風呂も沸いたみたいだし。
てんき:風呂? 入っていくわけ?
あめを:うん。風呂が嬉しい季節になってきたなあ。明日あたりは夕飯は鍋がいいぞ。
てんき:泊まってくわけ?
あめを:たまにはいいだろう? お泊まり、フォ~!
てんき:わけわからん。
あめを:風呂の後、2人で句会やるか? 人生を探求しながら。
てんき:やらん、やらん。
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by tenki00 | 2005-10-28 23:54 | ameo & tenki

心情・真情の吐露 …続・私という病

朝比古さんがコメント欄でとても有意義な展開をしてくださった。

俳人必読。

読んだ? じゃ、朝比古さんへの返信(Byてんき)

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朝比古さん、どうもです。明晰に展開していただきました。
特にパターン・フレーズ集は、この手の俳句を良しとする人には、泣くほど嬉しい虎の巻です。その手の俳人、はい、メモ、メモ。

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真情と心情のこと、私はいっしょくたで論じましたが、理解しました。
あえて、私の把握と並置すると…

ほんたうは戦争が好き葱坊主  矢島渚男
→(例)戦争は悪しきものなり葱坊主   (朝比古さん)真情/(天気)標語・意見・概念的総括
→(例)戦争に負けて悔しや葱坊主    (朝比古さん)心情/(天気)心情

忘れちゃえ赤紙神風草むす屍  池田澄子
→(例)忘れるな赤紙神風草むす屍    …標語・意見・概念的総括
→(例)忘られぬ赤紙神風草むす屍    …心情

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こうこうこう思う/感じる/した+季語、○○はかくかくしかじか+季語。
このパターンがすべて退屈なわけではもちろんありません。

ほんたうは戦争が好き葱坊主  矢島渚男
忘れちゃえ赤紙神風草むす屍  池田澄子

この2句は、私にはおもしろい。退屈なものとそうでないものの違いは何か。
退屈ではないものには、何があるのかといえば…
■ある種の裏切り
■機知 …あるいは俳句的機知
■自己戯画化 etc
    →知的操作(主知的な側面) …俳句的操作

主知的な俳句は、裏目に出れば、理屈でしか過ぎず、やはり退屈。しかし心情吐露や標語・概念的総括に陥りそうなモチーフを裏切っていくとき、そこに必要なものは「機知」あるいは「俳句的機知」といえます。

すこし事を簡単にしましょう。

心情や意見をそのまんま12字かそこらにして季語くっつけて読まされてもなあ。っつう気持ちになってしまう。
(この手の句が、気の利いた季語の斡旋で高評価を得るケースがある、そのへんの事情は朝比古さんがおっしゃるとおり)。
ところがね、ちょいとひねってくれるとおもしろくもなる。

最後に、誤解を招かないために、ひとつ。俳句は、「知」よりも「情」が載りやすい乗物だと思う。主知的に処理するべきと言っているのではない。「情」を載せて、それを他人に伝えるときに、そこにはなにかしら必要なものがあるはずだということ。簡単にいえば「工夫」かもしれないし、茫洋といえば「俳」なのかもしれない。

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てんき:まあ、今回は、そんなところで。続きはまた。
あめを:そうね。また違う方向でも、たらたらやろう。この話題は、そのまま少し寝かせるのもいいかも。
てんき:四童さんのコメントからの展開もあるかもしれないし。
あめを:そだな。
てんき:展開、フォ~!
あめを:わかった、わかった。

訂正
朝比古さんから訂正がありました。
(誤)ほんたうは戦争が好き葱坊主  矢島渚男
(正)ほんたうは戦争が好き芥子坊主  矢島渚男

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by tenki00 | 2005-10-26 23:07 | ameo & tenki

「私」という病

あめを:よお!
てんき:おっ、久しぶり。
あめを:ああ、ごぶさた。
てんき:客観写生、フォ~!
あめを:な、な、なんだ? いきなり。
てんき:今年いっぱいはフォ~!で行こうかと。
あめを:勝手にしてくれ。しかし、なんでまた客観写生?
てんき:うん、ちょっと前のことだが、四童さんのブログで、「対象になりきって詠んでみよう」という記事があってね。
あめを:ああ、読んだ。「四童さんの言うとおり詠んでみよう」というのを、ここでもやったが、全員に無視されてたな。
てんき:山本星人ひとりきり。冷たい奴らばっかりだ、この界隈。
あめを:あはは。他人を甘く見るなよ。
てんき:まあ、それはいいんだが、「対象になりきって」という四童さんの話のなかに「客観写生」という言葉があって、そこで立ち止まってしまった。
あめを:「客観写生的に対象に肉迫する」という部分だな。なんでまた立ち止まる?
てんき:客観写生というのは、ひとつの指針だろう?
あめを:ああ、子規か。世間で言われてるのは。
てんき:そこで、ひとつ、考えが浮かんできた。つまり、客観写生というのは、えらくうまいこと考えたものだなあ、ということ。
あめを:いまさら、そんなことを考えるか。しかし、そのへんは微妙でむずかしいぞ。ボクらの俳句漫才じゃ、歯が立たない。いろんな人がややこしいことを言ってるかならな。
てんき:うん、むずかしいことを言うつもりはない。ただ、「客観写生でやんなさいよ」という俳句の「指導」は、なかなかのものだ。つまり、そうじゃないと、俳句はえらく変なところに行ってしまう可能性が大きい。
あめを:わかりにくいな。例えば?
てんき:例えば、対象じゃなくて、自分のことを詠み始める。
あめを:なるほど。しかし、それは明治の事情じゃなくて、現在の事情じゃないのか? こうこうこう思う+季語。こうこうこう感じた+季語。こうこうこうした+季語。それは昔の句よりも、今の俳句に多いように思う。
てんき:そうそう。子規は、今の時代を見越してたのかもしれない。
あめを:ふうむ。予見してたわけ? つまり、現時点でこそ意味をもつ「客観写生」という指針、というわけ? なんかヘンだな。キミにしては、教条的だし、だいいち、客観写生、ちゃんとやってる?
てんき:努力はしている。
あめを:ううん。まあ。それは置いといても、「自分のこと」ばかり詠む句の煩わしさはわかる気がする。
てんき:オクンチ句会での朝比古さんのコメントなんだけど、「心情吐露+季語」というパターンは、自分の結社でもよく見かけるというコメント。それを読んで、「はあ、そうなのか。どこでもそうなんだなあ」と思った。
あめを:麦の会にも多いというわけか。まあ、それは今の俳句全般にいえるかもしれないな。
てんき:気持ちはわかる。ある程度のオリジナリティをもって対象を詠むのは、つまり、単純にいって、むずかしい。ネタが尽きてしまう。だから、自分のネタになる。
あめを:そういう句は、認めないということ?
てんき:そんなことは言わない。ただ、99パーセントは退屈だ。
あめを:それは賛成する。作者の心情なんか興味はない。そういうことだろう?
てんき:そう。そういう句を読まされても、「あなたのことはどうでもいいから、あなた以外のことで面白いことはないの?」と聞きたくなる。
あめを:「だから客観写生を」というのも短絡というか乱暴な気もするが、気持ちはわかる。心情を詠んだ場合、その主情というのは、たいてい凡庸で、集合的なものだ。もしも、主情に、見たこともない狂気があれば、それはそれで面白いが、たいていそんなことはない。
てんき:そう。集合的で凡庸で使い古された主情。でも、それだからこそ共感を呼んだりもする。
あめを:そこで「客観写生」が、ある程度の歯止めになるというわけだな。
てんき:ここで、ちょっと観念的になるが、「私」という現代の発明物から、われわれを解放してくれるという面が、俳句にあると思う。もともと、俳句のようなものを作り始めたきっかけはそれなんだが、「私」という病気から、遠いところにあるのが俳句だと、曖昧なまま考えていた。ところが、「私の主情+季語」という俳句をたくさん目にすることになって、なんじゃこりゃ!と。
あめを:ふむふむ。
てんき:それと、これは伝統俳句とか現代俳句とかという区別にかかわらない。古いタイプの措辞でも、乱暴に前衛的な措辞でも、どちらにも「凡庸な主情」が頻繁に顔を出す。
てんき:それはつまりね、人間、ほっとくと、自分のことを語り出すわけよ。あるいは、しゃべることがなくなると、自分のことをしゃべり出すわけ。昔ね、会社の採用試験に携わったことがあるんだが、作文の試験で、そうだった。
てんき:ふうん、作文?
あめを:作文のテーマをね、「今朝起きてから、この試験場に来るまでに見たこと、経験したことを題材にして書いてください」とした。すると、9割以上が「自分」のことを書いていた。それだけで試験は×。編集スタッフの採用だから、当然だ。「読者は、キミのことになんか興味ない」ということだよな。職探しの最中か今の会社に不満で転職を考えているか知らないが、心情や境遇を打ち明けられても困ってしまう。
てんき:そりゃそうだ。
あめを:例えば、道で面白いものを見た、変な人を見た。そこがスタート。そこから、自分に引き寄せて展開してもいいが、読者が読みたいのはけっして、その人のことじゃない。自分の書いたものが、他人の目に触れる。そこから、自己露呈に行くか、それとも他人が何を読みたいかを探るか。その差は決定的に大きい。
てんき:ああ、だが、俳人は編集者じゃない。
あめを:わかっている。読者ニーズは話の尾鰭。要は、放っておくと、自分のことをしゃべりはじめる人が多いということ。俳句にも共通するだろう?
てんき:「私」という病だな。
あめを:そうかもしれない。ただね、俳句というのは、まずは作者個人から発するものだし、多くの読者を想定したものでもない。だったら、「私の主情」を詠んでも、いっこうにかまわないという理屈にもなる。
てんき:それには、じつは答えがある。「私」は狭隘で、対象としての「世界(cosmos)」は広大で豊かであるということだ。狭隘な「私」は、「私」あるいは「私の主情」によって、解放されることはないんだな、これが。「私」の狭隘さを突き詰めていく作業によっては、もしかしたら、「私」が解きほぐされるかもしれない。でも、すくなくとも「私の露呈」「主情の吐露」によっては、「私」の狭隘さが強化されるだけだ。対象としての世界との関わりによって、「私」がすこしだけ広くなる、溶解する。
あめを:そうなら、幸せな一瞬だな。
てんき:現実にはそんなことはなかなか起こらない。でも、起こるかもしれない。
あめを:思念的になっちゃったな。シンプルなところに戻ろう。「アナタが何を思ったか、何を考えているか」、それは日記にでも書いてくれ。俳句で伝えるのは「アナタ以外のもの」にしてくれ。そういうことだろ?
てんき:まあ、そうだな。もちろん、自戒の意味を込めて。
あめを:そう、自戒は大事、ね。
てんき:自戒、フォ~!
あめを:もういいって。じゃあな、また来るわ。この話題は、もう少し別の展開もありそうだ。
てんき:おお、またな。
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by tenki00 | 2005-10-25 23:21 | ameo & tenki