「いっしょに来る」

ある行末にfountain という語を置いたら、次の行の末尾はmountain が選好されるというふうに韻が選択されるとしたら、それはずいぶん詩作において不自由なことではないか。
福原麟太郎は英国の詩人たちにそう問いただした。
答えは「ノー」であった。
なぜなら、二行並韻は「いっしょに来る」からである。

内田樹「人間的時間」


以下、俳句とのアナロジーへと強引に。



因習的に、時間意識というのは直線的に「過去から未来に向けて流れる」(同)

経過を叙するに、五七五音の器は小さい。けれども、時間の一点/全体を叙するに宜しき器。
そのとき、五七五も、「いっしょに来る」。

ついでに季語も、「いっしょに」来たりする。

五七五はルールでも規範でもない。季語はルールでも詩嚢でもない。
季語も五七五も、「いっしょに」現れてしまうものなのだ。

…と言ってみたい(まだ、言えていない。今のところは願望の段階)。


〔参考〕
上田信治「季語は、やっぱりルール
小野裕三「はっきり言いますが、世の中的には「前衛」は死語です。

拙文「季語、効率と制御のデバイス」2006-08-16
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by tenki00 | 2009-03-04 12:10 | haiku
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