彼らの俳句(2)

承前

週刊俳句第77号に掲載された高校生の作品にまつわる、やまちあんさんの反応は、きわめて根源的なものだ。

四人の高校生の句を、たとえば有名俳人の作品だと言われても不思議な感じはしないだろう。これは、どういうことなんだろう。人生経験が少なくても、あるいは詩情を持ち合わせていなくても数学の答えを出すみたいに、機械的に名句をつくる方法を心得ているのだろうか。俳句はそうやって作ることも可能である、ということだろうか。
やまちあんさんのブログ記事 「素直に」

これはむずかしい問題だと思う。

俳句のコツみたいなものについては、年齢によらず、飲み込みの早い遅いがある。それは私たちの周囲を見てもわかることだ。始めてすぐにじょうずな句をつくる人もいれば、そうじゃない人もいる。

「詩情」について、私自身は、俳句に不可欠なものとは思わない。「俳」があればいい。「俳」とは何かと問われたら困ってしまうが、「詩」とは違う。ただ、この「詩」とか「詩情」というのが厄介で、何をさしているのか、よくわからない。人それぞれの語法に過ぎなかったりする。

「人生経験」という部分は、それでは私たちオトナが、「人生経験を必要とするような作句、経験を良きかたちで反映した俳句をつくっているのか?」と問われれば、イエスとは即答できない。あるいは「人生経験って、いったい何だよ?」と若い人に訊かれたときに、少なくとも私にはりっぱな答えはない。

ひょっとしたら、俳句をつくるのに、人生経験なんて不要、もっといえば邪魔かもしれない。俳句が向き合っているものは、人生なんてちっぽけなものではないから。人生におさまってしまうような俳句なら、べつに俳句なんてつくることはない。「人生」していればいいのだから。

このように考えていくと、私の「俳句観」のなかで、「俳句をつくること」と「俳句の方法」とほぼ重なってしまう。人生経験も詩情も不要だから。だが、違う。句作=方法という考え方には、はっきりと異を唱える。では、何なのか、というと、難しい。この記事の最初に表明した困難に立ち戻ってしまう。

ああ、悩ましい。


(つづくか、つづかないか、不明)
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by tenki00 | 2008-10-17 20:03 | haiku
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