50年前に夢想された未来

週刊俳句第45号の「谷保逍遥」(長谷川裕)は、とても滋味のある記事。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2008/03/1.html

そのなかで「鉄腕アトム・赤い猫の巻」が取り上げられている。私が、この物語を読んだのは小学校高学年。といっても『少年』誌上で発表されたのは1953年で、私が生まれる前。後追いの単行本で読んだクチ。近畿地方の片田舎に住んでいた小学生が「武蔵野」という言葉をはじめて目にしたのは、この物語を読んだときである。

「鉄腕アトム」というと、古いアニメを思う人も多いかもしれないが、私にとって、そして「谷保逍遥」を書いた長谷川さんにとって、アトムといえば、昭和26年「アトム大使」から始まる連載マンガ、それも、初期から中期のものになる。そこには、切ない時代精神のようなもの、また官能的な要素がいっぱいに詰まっていた。

アトムが描かれたときに想定された未来。それは戦後まもない手塚治虫のアタマのなかにあった未来だ。その未来の時点に、現実には、私たちはすでに到達してしまった。正確におぼえていないが、アトムが誕生するのは21世紀初頭(作品制作時の半世紀くらい先)という設定だったと思うので(*1)、その設定年にまで、私たちは生きてしまった。

けれども、「人のこころを持ったロボット」は、いまだに生まれていない。手塚の未来予想は、大きくはずれたことになる。

一方、初期のアトム、例えば「赤い猫の巻」の舞台となる21世紀初頭の東京、その郊外には、森がまだ残っている。それだけではない。懐かしい風景は、アトムの物語の随所にある。道でメンコを遊ぶ玉男くんやケン一くん。雨合羽を着たアトム、あるいは「ポチョムポチョム島の巻」の冒頭、海に潜ったシブガキ(ガキ大将)が瓶詰めの手紙を発見することから、物語が始まる。東京近郊の海だ。これらはずべて、21世紀初頭の風景として、描かれている。

だが、実際には、どうだろう。現在、道でメンコ遊びをする小学生はいない。湘南に素潜りを楽しめる海は、あるのだろうが、身近な遊びとは思えない。

つまり、21世紀初頭の今、かつて手塚が想像したように、心をもったロボットはまだ存在せず、一方、懐かしい風景の多くはすでに失われてしまった。

科学の「進歩」は、手塚が想像したよりもはるかに遅く、「破壊」の進行は、手塚が想像したよりもはるかに早かった。そんな21世紀初頭に、私たちは暮らしている。

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ところで、初期・中期のアトム物語には、ペシミズムの色が濃い。後期になり、アニメ人気が加わってからのマンガの「アトム」は、正義の味方、心優しい優等生になってしまったが(いわゆる当時のPTA推薦)、もともとは、そんなものではなかった。

人間の愚かな行為が、災難(あるときは人類滅亡のカタストロフの寸前)を招く。その尻拭いに奔走するのが、ロボット(人間の召使い)であるアトムだ。

アトムは、しばしば悲しそうな顔をする。怒った顔も、なんだか哀愁を帯びる。「赤いネコの巻」に登場するマッド・サイエンティストは、人間の愚かな乱開発、発展主義に、ひとり異議を唱えるという意味では、現在の環境保護主義者よりもはるかに常識的で、気概や品格さえ感じる。けれども、アトムは、法と秩序の側にいる。宿命として、マッド・サイエンティストの「犯罪」を阻止するが、当時、これを読んでいた私は、アトムがなんだか不憫だった。

アトムという存在を、「人間と非・人間の境界的存在」と捉える物語分析は、容易に可能で、すでにそうした仕事も多く残されているはずだが(四方田犬彦がたしか「ユリイカ」に書いた一文など)、そのあたりから、アトム物語の「官能」は生まれているのだろうと思う。

「私たち」とは異質で、「私たち」と「彼ら」のあいだの皮膜のような部分に存在するもの。転校生というモチーフもそうかもしれない。そこには、「私」「私たち」の自己同一性を揺さぶる何かがあるのだろう。

話がそれたが、今回、長谷川さんの「谷保逍遥」を読んで、半世紀前に、手塚治虫が思い描いた未来(=現実の現在2008年)のなかの「武蔵野」(=私が住んでいる土地やその近郊)のことを、なんだか不思議な感触で捉えることができた。

建て売り住宅だって、ラブホテルだって、物流倉庫だって、必要だからできているんであって、そいつはちょっと以前まで、必要だったからそこら中が畑や田んぼや屋敷林になっていたのと同じことじゃないかしらん。縄文人は、森や湿地を切り開いて、どんどん畑や田んぼにしてしまう弥生人の乱開発ぶりを、さぞかし苦い思いで眺めていたことだろうが、しょせん人の暮らしなんて、乱雑で、お行儀の悪いものなのだ。(「谷保逍遥」より)

懐旧的保守主義は、いつも、「今」を嘆き、「昔」を愛おしむ。私も、そのクチだ。それでいえば、長谷川さんの「達観」は、感傷を超え、感傷をあざ笑うかのようにも聞こえるが、そこには「諦観」も読みとれる気がする。長谷川さんに限らず、ひとりの人間のなかに、進歩主義的現実家と、保守主義的夢想家の両方が住んでいるのかもしれない。



(*1)アトム誕生は2003年、ということです。年表↓
http://www.asahi.com/ad/clients/atom/world_story.html
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by tenki00 | 2008-03-04 09:15 | pastime
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