スピリチュアル商売

BPO(放送倫理機構)などというところが、「ええかげんにせえよ」と言ったところで、スピリチュアルとかいうオカルト商売を、霊媒タレントもテレビ局も自粛することはないだろう。しかたがない。テレビなど、見なければいいのだ。ところが、仮にも大学が、それも保健福祉学部の、客員教授として招くとなれば、「おい、ちょっと待て」となる。

kikulog 「江原啓之が旭川大学の客員教授になる件」
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1204070813

このブログ記事には数十のコメントが付けられ、示唆深い展開を見せている。

江原某が、たとえば、コニュニケーション学部(いかにも新設っぽい)の「占い学科」などといったところに客員教授のポストを得るというなら、笑っていればいいのだろうが、こともあろうに「終末期ケア」に関する講義であるというのだから、笑ってはいられない。深刻な事態として捉えるべき問題なのだ。

上掲ブログ記事・#8のコメントにある「嘘をつかない」「他人の心をもてあそばない」という原則はシンプルで強靱だ。それに尽きるという面がある。

嘘をつき、他人の心をもてあそび、それによってカネを引き出すこの手の霊感・スピリチュアル・占い商売は、汚ならしく卑しい商売である、と(少なくとも私は)はっきり断じる。

ところが、それらを「慰安」と感じる人たちが、少なからず存在する。そして、ややこしいのは、「嘘でもまやかしでも詐欺でも、それで『心が救われる』なら、いいじゃないか」という見方が示されるときだ。

そうした、いわば「結果オーライ」の考え方に対して、どんな答えを用意できるのか。また、論理とは別に、経験として、そうした局面が訪れた場合、私たちは何をすればいいのか。「終末期ケア」では、それがきわめて深刻な実例として立ち現れるはずだ。

「苦しみが軽減されさえすれば、それでいい」という一種の実利主義は、本人にとってきわめて切実なものであると承知はしても、そこに価値を置きたくはない。だが、例えば、家族のひとりが、そう唱えたときにも、「なにをバカなことを」と一蹴できるのか。それには、あまり自信がない。

意外に難しい問題なのだ。いわゆる「ビリーバー」が、どこかの知らない(蒙昧な)人々であるうちは、これらを社会的問題として、いわばちょっと距離を置いて扱うことができる。だが、「ビリーバー」が突然、身近に現れることだって、充分にあり得る。

自分の大事な人が、こうした汚らしく卑しい商売に、多少でも精神的に関わりを持つ(つまり「信じる」ということ)としたら、それはもう、悲しいし、悔しいし、腹立たしいし、なんともいいようのない気持ちを味わうにちがいない。

「心」なり「精神」といったものを、そのように通俗的・実利的に扱うことは絶対にしたくない。それまで生きてきた「心」、これから暮らしていく「心」の、最低限の「価値」のようなものを信じたい気持ちが強くある。ごくごく普通に。

テレビや書籍・雑誌で繰り広げられる「オーラが見える」だの「前世がどうの」だの、そんな安っぽい与太話と同じところで、誰かの「心」や「精神」が扱われるとしたら、ただただ悲しい。単純に、悲しい。「心」を、そのような安っぽく卑しく汚ならしい存在と同列とみなすなんてことは、どう考えても悲しすぎるのだ。


それにしても、旭川大学。しっかりせえよ。気をたしかに持てよ。


なお、上に挙げたkikulogというブログは、今回に限らず、興味深いエントリとコメントの展開が数多い。オススメです。
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by tenki00 | 2008-03-02 23:20 | pastime
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