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俳句の不思議01 句集に帯?

1年に1回出る「豆の木」誌に、参加全員、同テーマで短文(80字くらい)を書くコーナーがある。今年のテーマは「俳句で不思議に思うこと」。むずかしいテーマだったが、なんとか書いてメールした(こしのさん、編集作業、お疲れさまです)。このテーマ、このブログで連載形式にしてみようと思い立った。書き残したことがあるというわけではないのだが、なんとなく。

で、第1回は、句集に付いた「帯」。


「腰巻」とも言う。本のカバーの外側、下方に巻き付けられた「帯」。ほとんどの句集に付いてます。

帯は、広告のスペースです。「この本はこんなにおもしろい、だから、めくってみて! 買って!」というメッセージを、この部分に詰め込みます。カバーではなく、わざわざ別に帯を付けるのは、直接的な広告メッセージをカバーに刷るのは、ちょっと気が引けるから。少々下品にもなります。

すぐにサシカエがきくというメリットもあります。例えばセールスが伸びたら、急遽、帯に「何十万部突破!」の字を刷る。文学賞を穫ったら、同じく急遽、帯に「ナントカ賞受賞!」と刷って、刷り増しに新しい帯を付けて、出荷する。帯はコストも安いのでフットワークがよい。

帯というもの、役割を考えると、それは著者よりも、出版社のマターです。帯の惹句は、著者が書いたりしない。そのことからも、それは明らか。書籍本体と読者(消費者)とをつなぐ役割をになっているのが「帯」ともいえます。

ところが、自費出版の句集にも、帯が付いています。書店で売られることのない自費出版本に、帯が付くというのは、たいへん不思議です。

きっと、帯が付いているほうが「ふつうの本」ぽく見える、という視覚の問題が大きいのでしょうが、やはり不思議です。「ふつうの本」のフリをすることに何か意味があるんでしょうか?

句集の帯には、自選(主宰選)10句とかが刷ってあることもあります。これも不思議です。例えば300句を収めた句集を出版して、そのなかから10句を自分(主宰)が選ぶ。

じゃあ、10句だけ出版すれば、よかったのでは? と思ってしまいます。あとの290句は、いったい何なんでしょう?(*1)

自(他)選10句ならまだしも、帯に、惹句が刷ってあるのを目にすることもあります。

「待望の~!」なんて言われても、数百部を刷る句集を、誰が待っていたのか、それを考えると、数百人以内の世界なわけで、それはちょっと痛々しい。

「ナントカの宇宙!」なんていう、トンデモ惹句を見たこともあります。不思議を通り越して、ウルトラQやトゥワイライト・ゾーンの世界に突入させられてしまいました。

ともかく、句集の帯というのは、不思議な世界です。

どうせコストは全額負担するんだから、著者の目がすみずみまで行き届いた本に仕上げてもいいと思うのですが、どうなんでしょう。私家版でも、出版社経由でも、いずれにしても、みながみな「ふつうの本」のフリをすることはないでしょう。



なお、書店で売らないのに、バーコードが刷ってあることを不思議に思う人もいるようですが、あれは、1冊でも本屋で売れることがあれば必要なので、299冊には不要でも、やはり必要なのです。

(*1)
自(他)選10句は、実は、句集を雑誌などで紹介するとき、そこから何句かピックアップするという便利な使用に供するため、という側面もあるようです。全ページを読むことなく紹介記事を作るという横着者には、帯の10句がたいへん便利というわけです。贈呈の礼状を書くのに、これを使ってはいけません。それはとっても不埒なことです。
by tenki00 | 2008-02-11 00:44 | haiku no fushigi
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