俳句漫遊記114 海外詠

遠雷や路上にミシン踏む男  対馬康子

「遠雷」と「男」の位置関係(の不確定・曖昧さ)が、動的な空間意識を呼び起こす。ミシンを踏んで大地をぐいぐいと動かしていくようなのだ。作者の視点は、定点カメラではなく、ハンディカムを携えて早足で、不明の地理に迷い込む感じ。

さて、海外詠。ざっくばらんに言えば、ピンとこないことが多い。例えば誰かの句集の一郭に並んだ海外詠の一群、あるいは十数句かそこらの海外詠作品にせよ、つまらなく感じることが多い。

対馬康子第3句集『天之』(富士見書房2007年7月)の終わり近くは、海外詠が並んでいる。つまらなくなくて、ちょっと吃驚した。変な言い方。つまり、海外詠の多くが気持ちよかったのだ。

出版社、すこし名の知れた出版社には大量の原稿が持ち込まれる。いわゆるシロウトが「書いてみたのだが、本にならないか」と自分の原稿を送りつけるのだ。本人は、こんなにおもしろいものが書けたのだから、出版すれば、売れるだろう、評価されるだろうと、自信満々で送りつける。だが、実際に編集者の目にとまり、会議を通過して、出版の運びとなる持ち込み原稿は千に一つ、万に一つもない。

そうした持ち込み原稿で、いちばん多いのが海外旅行記だそうだ。もしくは海外滞在記。

海外に出かけた人は、「こんな世界があるのか。自分が暮らしてきた世界とまったくちがう!」と衝撃を受け、それを書く。

「こんな不思議な、こんな興味深い体験をしたのは、自分がはじめてにちがいない。この驚き、この面白さを、ひとに伝えたい」と思うのだろう。その体験は、自分にとってははじめてかもしれないが、じつは誰もが旅のたびに思うこと、考えることの範囲を出ない。本人にとってははじめてでも、事実としては、百万回くりかえされた感慨なのだ。

別の譬えを持ってこよう。もし、あなたが海外旅行で飛びきり興味深い体験をしたとする。帰国した翌日、そのことを友人にしゃべりたくてしかたがなかったとしても、やめたほうがいい。きっとおもしろくない。誰が聞いてもおもしろくない、おもしろがっているのはる本人だけ、という危険性がきわめて高い。

時間を置いてから(何週間か何ヶ月か何年か何十年か)、「あの」おもしろかった体験を、友人に話して聞かせる。そのときは、おもしろがってくれる可能性がある。

『悲しき熱帯』は最高至上の旅行記だが、レヴィ=ストロースは南米から帰国して、ずいぶんと時間が経ってからこれを書いた。体験を適切に書くための冷静さを得るまでに何年もの歳月を要することを自覚していた。

話が逸れたのではない。海外詠というものも、旅の土産話・旅行記と形式こそ違え、人を愉しませるところまで持っていくのは、とてもたいへんなことなのだ。


ほかに海外詠を同句集から気ままに何句か。

春灯を放射に広げゆく離陸
家々に神あり螢火のごとく
旅人の木という影の涼しかり
マンゴーの雨と名付けしものの中
昼寝覚客待つ街の名は天使
象使い銀河に集い来て眠る
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by tenki00 | 2007-09-26 19:01 | haiku-manyuuki
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