戦争と俳句2007

  八月は兵隊さんの句がふえる  天気

毎年8月になるたびに同じことを書いている気がするが、それでもやはり同じことを繰り返す。

8月になると、俳人さんたちは、やたらと、あの戦争のことを句にする。ネット上でもあちこちで、原爆忌/広島忌、長崎忌、終戦/敗戦記念日、八月十五日。

ずいぶん気楽なことだと、毎年思う。

こうした季語で句を捻る俳人(俳句愛好者)を、信用しない。

たくさんの人の死、大量虐殺、戦争という複雑な暴力……それが間接的な「知識」という脆弱な経験を通したものであっても、厳然と事実としてあった、ある、これからもありつづけるであろうことに対して、私自身は、できるかぎり真面目でいたい。こんなことを書くのが恥ずかしいほど、真正面から誠実でいたい。

その一方、そうした覚悟とはまったく関係のないところで、俳句を遊んでいる。

このふたつを、自分の中で結び合わせる気も意思もいっさいない。

たくさんの人が虐殺する/されるという事実に対するスタンスと、自分が、のほほんと生き、暮らし、俳句というどうでもいいものを遊んでいること、そのふたつは峻別しておきたい。峻別すべきと考える。

だから、原爆忌という「季語」にテキトーに七五をくっつけるという遊びは、絶対にやらない。それが、のほほんと生きさせてもらっていることに対して私ができる最低限の慎みと思っている。あわせて、例えば原爆忌や敗戦日の詠んだ句を、前述のように「ずいぶん気楽なことだ」と思う意外の反応は示せない。

情緒と理性という問題もからむ。戦争や暴力への忌避(反対表明でもなんでもいいけれど)の最初は、情緒的なものだろう。この手のことに理性から出発できるのは「神さま」くらいのものだ。人間なら、情緒から出発する。だが、それを情緒のままにしておくことは、蒙昧な自己愛にすぎないように思える(戦争に反対する平和主義者である自分、という自己肯定)。

戦争反対(平和)を情緒的に叫ぶ人たちと、戦争推進を情緒的に叫ぶ人たちとが、それほど遠い距離にいるとは、私には思えない。同じ顔ぶれの人々が、歴史のあるときは戦争推進の小旗を振り、別の時点では(情緒的・イデオロギー的)戦争反対のイベントに蝟集する。あるいは、テレビの前で「戦争はほんとうにイヤだ」と煎餅を囓りながら家族で話したりする。

いま戦争にまつわる俳句(戦争関連の季語に七五をくっつけた俳句)が大量に、ぽこぽこぽこぽこ生み出されるのを眺めていると、「気楽でノーテンキな俳人さんたち」と思うと同時に、「グロテスクで残酷な俳人さんたち」とも思う。なんでもかんでも俳句にしちゃうんですね。

もちろん、戦争関連季語で俳句を捻ってらっしゃる俳人さんのなかには、なんらかの信念と確信をもって、そうした俳句を作っているのだ、と胸を張っておっしゃる方もいるだろう。それはそれで、人それぞれの覚悟と選択である。


〔過去記事〕
グロテスクな祭り
http://tenki00.exblog.jp/1439742/
戦争と俳句(1) あのさあ、峠谷さんの記事、読んだ? 
http://tenki00.exblog.jp/1499336/
戦争と俳句(2) あしたあたりからわんさか出てくるんだろうねえ
http://tenki00.exblog.jp/1537858/
戦争と俳句(3) 結局は個人の問題か。退屈なとこに落ちるなあ
http://tenki00.exblog.jp/1544596/
今日は原爆忌
http://tenki00.exblog.jp/3506583/
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by tenki00 | 2007-08-07 22:20 | haiku
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