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切れ字の「や」

高尚な話が始まりそうなタイトル↑だけど、例によって、ぜんぜんそうではない。初心者としての悩みを吐露するというだけ。

「や」というのはむずかしくて、すごく厄介。

まず、おさらい。
http://toto.cocolog-nifty.com/kokugo/2004/10/post_3.html

いまさら何言ってるんだ?と思う人が多いかもしれないが、句のなかに「や」が置かれた場合、次の2つの約束事が生じる。

1) そこでいったん切る。これにはおそらく2つの側面があって、ひとつは韻律として一拍置くということ。もうひとつは、散文文脈が切れる。つまり文意を前後で連続させない(このことは但し書きがつく。それはあとで)

2)前に置かれた語(つまり「や」のくっついた語)の示すモノやコトへの感嘆・感動をあらわす。

このうち、俳句においては、1)については、ほぼ共通の認識が築かれているように見えて、そうとも言い切れない。「文脈が切れる(不連続になる)」。これはお題目としてはいいのだが、実際の句においては、実にさまざまな「切れ方」をする。つまり、不連続となって切り離された2つの部分のその関係がひととおりではない。

たとえば、長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんだか』以来、しばしば話題にのぼる「古池や」の「や」。

俳句という定型のもっとも大きなアドバンテージである「形式」(これは同義反復的に空虚な自明)の、その解釈(つまり、どう読めばいいのか)にさえ、揺れと幅が生じるということを、どう考えればいいのだろう?

(こうなっているときは、こう読め、という決まりが堅固なら、どんなにかラクだろう)

橋本直さんのエントリ「歌舞伎と俳句」にはこうある。

身体ではなく言語のみで勝負する俳句では、五七五という定型を持つけれども、その中にいかほど表現の型とそれを理解できる文脈を継続できているのだろうか。文字通り身体運動が加わる歌舞伎の文化と違って、言語で勝負する俳句の文化においては、インフラとして理解の文脈がなければ、伝統と称し一見強固に見える定型の中身もそんなにないはずだ。(中略)「古池や~」一句で本が一冊書けるほど不安定な状況なのだ。

俳句を始めた当初、「インフラとして(の)理解の文脈」はどこかで共有されているのだと、勝手に思い込んでいた。自分が知らないだけで、どこかには。

ところが、数年間、俳句を遊んでくるうち、あれっ?と思うようになった。人によって、(あるいは流派によって)、ずいぶん違うんだなあ、というのが、実際のところだ。


ううん、「や」。むずかしい。

(つづく)
by tenki00 | 2007-04-20 23:55 | haiku
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