東人さんのブログでロジェ・カイヨワという名前を見て、『石が書く』という本を思い出した。『遊びと人間』という本が有名だが、この『石が書く』は新潮社の「創造の小径」というフランスかな、そのちょっと古いめの思想家や小説家の、ちょっと趣味的な、というのはその思想家の余技的な書き物を集めたっぽいシリーズの1冊。ロラン・バルトの『表徴の帝国』も最初はこのシリーズの1冊だった。カラー写真がたくさん入っているせいもあって、値段は高かった。古本で何冊か買って、いくつかはすごく面白く読んだ。ル・クレジオとか。

で、『石が書く』という本。原題は「石のエクリチュール」というもので、この邦題(石が書く)はかなりセンスがない。内容をわかって訳しているのだろうかという思いさえ抱いてしまう。話、戻そう。つまり石が、いろんなエクリチュール、っていうとややこしいので、いいかえれば、なにかを描き出すというもの。くわしい内容は憶えていないが、印象的にざくっと頭に残っているのは、断面が(偶然に)つくりだす模様について、知的な修飾を凝らした文章が連ねてあったこと。フランスの20世紀の中頃から後半の思想家は饒舌で、キザで、お洒落に語りまくる。カフェのおしゃべりということなのだろうか。バルトが典型ね。フーコーはちょっと違って飲み屋か大学の研究室のおしゃべりという感じ。って、フランス語を読んでるみたいなことゆって、勘弁。もちろん訳文からの想像。

えらい前置き長い。ごめん。つまり、偶然ということに、私は惹かれるらしいということ。人の手によって緻密に作り上げられた作品というのとはべつに、こんなん出ましたーという感じのもの。連句で、吾郎さんとかが、このセリフ、こんなん出ましたーと付句を付けていたのも思い出すが、俳句というのは、石をぱかんと割ったとき、たまたま面白い模様があらわれるように句が現れるとき、もっとも幸福な瞬間だろうと、よくわからないままに考えていて、そうした瞬間は、「待つ」しかないようでもあり、ぱかんぱかんと手当たり次第に割ってみないと出会えないもののようでもあり、なにげなく割っているようでいて、そこには経験に裏打ちされた「勘」が必要のようでもあり、そのへんはむずかしいが、ともかく、そう簡単に、偶然に出会えない一方、そう簡単に修練によって、面白い句を生み出せるわけでもない。

石というのは、そこらへんに落ちている。それをぱかんと割って、ほら、おもしろいでしょ!と目の前に差し出す。あるいは、袖でちょちょいと拭いて、ほら、面白い色してるね?と差し出す。そういう俳句が作れればいいなと思うわけですが。

いずれにしても、俳句は、〈私〉のエクリチュールではなく、〈もの〉や〈こと〉のエクリチュールに、〈私〉が出会うに過ぎない。

このあいだ買った角川俳句のどこかにも書いてあったが、これが言いたかった、こういうことが言いたいという物言いには、どうも違和感がある。なに、それ?

〈私〉の言いたいことを言うのに、俳句ほど不向きなスタイルはない。半面、〈私〉が思ってもみなかったことを言うのに、これほど適したスタイルはない。

えらく長い。終わろう。石を拾って、指の腹で拭いてみたり、どこかにぶつけて割ってみたりは、とうぶんは面白そうなので、続けていきそうだ。って、無理矢理の終わり。
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by tenki00 | 2005-05-09 01:43 | haiku
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