俳句漫遊記84 俳句ということ

烏山肛門科クリニックああ俳句のようだ  上野葉月

誕生のときに立ち会っていたかったと思う句がある。例えば句会で、その句が出て、それをいただくという体験ができていたら、どんなに幸せだろうと思う句がある。掲句は、そんな句だ。

この句は、「俳句として」圧倒的である。一方、「俳句として」でなければ、圧倒的どころか、ほとんどその価値を見出せないような代物である。だが、このテクストの輝かしい事件性を前にして、そんな条件付きの興醒め(disenchantment)は無粋である。これは「俳句」なのであり、ここで私たちが立ち会うのは「俳句」のもつ魔法(enchantment)なのだから。

俳句の持つ集合性・歴史性と、このようなかたちで幸福に出会う句というものもあるのだ。

季語は「肛門」で春。ウソです。無季でしょう。実は、先ほどもこの肛門科クリニックの前を走って家に帰ってきたのだが、実際には「烏山肛門科クリニック」ではなく「烏山肛門大腸泌尿器クリニック」。まあ、省略くらい、あっていいし、事実でなくてもかまわない。葉月さんは、この肛門科クリニックの前を自転車で走りながら、ということは肛門をサドルで痛めつけながら、この句を捻り出したのだろう。

21世紀初頭を代表する句のひとつであると確信する(私は本気ざんす。正気ざんす)。

掲句は『豆の木第10号』(2006)所収。
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by tenki00 | 2006-07-19 23:06 | haiku-manyuuki
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