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歳時記を買うの巻 第3回 太陽暦歳時記

句会でよく見かける歳時記は文庫サイズの4巻本、つまり春・夏・秋・冬新年の分冊だろうか。でも、分冊じゃないほうが私には好ましい。季節の変わるたびに持ち歩く歳時記を変えるという、こまめなことができそうにないからだ。一年中使えて、なおかつ持ち歩くにはコンパクトなほうがいい。それなら「季寄せ」がよかったりするが、いやいや「歳時記」で探してみようというのが、このシリーズの趣旨である。

そこで積み上がった本の山をちょっと見遣ると、『現代俳句歳時記』(現代俳句協会編・1999)という横長の歳時記が見つかった。なんで、こんなものがあるのだろう? 買ったのか、いただいたのか、忘れた。995頁・3300円。相当に高い。

特徴のひとつは太陽暦基準。春は3月から5月となる。従来の歳時記の旧暦基準だと、現代の「生活実感」からずれる。そのため太陽暦基準という編集意図である。

たしかに8月が秋という旧暦基準には違和感がある。西瓜割りが夏で、西瓜が秋というのも、しっくり来ない(その理不尽を楽しむという朝比古さんの態度もアリだろうが)。入谷の朝顔市は7月6~8日だが、朝顔は秋の季語。こうした例はいくらもある。

でも、それで、旧来の歳時記に不便を感じるかというと、私自身は感じない。ひとつには、その手の齟齬にあまり頓着しないからだ。朝顔は秋の季語だから、立秋になったら詠もうというふうには考えない。朝顔が詠みたいときに詠む。詠みたいときが7月なら、詠む。「まだ7月なのに、朝顔なんて!」と顰めっ面をする人もいるかもしれないが、あまり気にしない。

目の前にあるものを詠むから、旧暦歳時記と実感のズレは気にしないという考え方もあるが、ちょっと違う。スーパーに行けばトマトは一年中あるし、西瓜は春から並ぶ(高価だけど)。シーズンインとシーズオフを緩やかに捉えれば、冬にトマトを詠むのは、あまりに唐突なので避ける。そんな融通無碍な「季節感」でも、あまり不自由はしない。

それにまた、年によって季節の移り変わりのタイミングが異なるようにも思う。去年は5月がやたら暑く、8月に入るか入らないかの頃にはすでに「晩夏」の光や空気だった。

当季ということの捉え方も、人それぞれらしい。先般(7月)の句会で、ベテラン俳人(複数)の句に「夏至」「夜の秋」という季語が入っていた。とっくに過ぎた「夏至」、まだ梅雨も明けていない時期に「夜の秋」が当季として出てくることのほうが、私には違和感が大きい。

そんなこんなで、(旧来型)歳時記から実感へのアジャストは、各自それぞれということでいいと思うのだが。

太陽暦採用というだけでは、俳句歳時記として大した存在価値にはならない、というのが私の見方。『現代俳句歳時記』が全体としてどうかといったことは、次回に。

ものすごくつまらない追記;
「花野」という季語を春と勘違いしたとおぼしき句を、今年、ずいぶん見かけた。「花野」が秋で、「お花畑」が夏という振り分けに、私自身まったく実感はないが、「まあ、決まりだから」という感じ。私の場合、正直言えば、同じモチーフの句で、そのときが春なら「春野」、秋なら「花野」くらいのいい加減さだったりもする。
by tenki00 | 2006-07-17 12:05 | haiku
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