歳時記を買うの巻 第2回 紳士録商法

前回、ネットからの珍妙な掘り出し物、「ザ・俳句歳時記」の商品紹介要旨には、こうある。

総掲載句、約二万九〇〇〇句の中で、「名句」は最少限(約二〇〇〇句)にとどめ、数の上で圧倒的に重点を置いたのは、現代の俳人の作品です。

非常にわかりやすい。現代の俳人の作品を多数(差し引き27000句ということかな?)掲載することで、掲載作品の作者の購買を狙った出版企画ということ。自分の句が載っているから買うという俳人がどのくらいいるかわからないが、3,045円のこの本が2万部、いや1万部も売れれば、版元としては万々歳だろう。読者としては、当然ながら、「名句」を29000句にしてほしい。「現代の俳人の作品」に、圧倒的な重点など置かないでほしい。しかし、版元の商売の意図は、そこにはない。

本来、書籍にはコンテンツ(原稿)のコストがかかる。例句もそれに含めれば、「現代の俳人」に少額ではあるが掲載料(あるいは微かな印税)が支払われてもよさそうだが、歳時記ではそうはならない。そういえば、講談社で歳時記の企画本を作ったとき、俳句にも歳時記にも疎い担当編集者が、例句の作者への支払いについて調べ、「支払いは発生しないんですって。歳時記に自分の句が乗るのは名誉っていう捉え方らしいです」とびっくりして報告してくれた。本を作る側からすれば「ラッキー」と小躍りしたくなる慣わしだ。まあ、しかし、例句は「引用」と解するのが妥当だから、印税も掲載料も発生しなくて当然といえる。

例句、それも物故ではなく存命の「現代の俳人」の例句は、コストがかからないどころか、セールスも見込めるということで、版元にしてみれば、いい商売である。「自分の句が載っているので買っておこう」という気持ちは別に不自然ではない。この記事を読んでいる人のなかにも、以上のような理由で「ザ・俳句歳時記」を買ったという人がいるかもしれない。

「紳士録商法」とは、勝手に紳士録名簿に名前を載せて、それを送りつけ、掲載料あるいは誌代を請求することを言うので、この手の歳時記は、正確には紳士録商法とは言えない。でも、やってることはそれほど遠くない。

もちろん、最低限、例句として載せていいものを選んで載せているのだろうが、それにしても、「現代の俳人」の句を、歳時記で読みたいとは思わない。別のところで読んだほうがいい代物だ。

私としては、歳時記の例句には、古い句がたくさん並んでいてほしい。江戸期を含め明治大正昭和。時間は、一種の濾過装置である。数十年から数百年を経て句として残る句には、それなりの意義があるのだと思う。例えば、私が使っている「日本大歳時記」の「暑し」の項には、鬼貫、去来から始まり、江戸期約10句、子規、蛇笏、龍之介などを経て、加倉井秋を、草間時彦、中村草田男で終わる全29句が例句として挙げられている。これなら例句を眺める気はする。

対して、「現代の俳人」の句が例句としてわんさか並んだ歳時記。どんな「良い句」が入っているか知らないが、私には用無しである。時間の経過という評価の濾過を経ていない「現代の俳人」の句を、歳時記で読まされたら、たまらない。全部がゴミとは言わないが、数十年も経たないうちにゴミ同然の句もあるだろうし、いますでにゴミの句も確実に紛れ込んでいる。

なお「新しい」例句を収めた歳時記は、「ザ・俳句歳時記」には限らない。特に単価の高いものは、「紳士録商法」の採算に合う。大きな歳時記として、講談社からは「日本大歳時記」を刷新した「新日本大歳時記」が出ているが、例句が新しくなっていたら、危ない。角川からも刊行が始まったが、こちらは、現代の句がかなり多数と聞く。「紳士録商法」まっしぐらか。機会があれば、講談社、角川の新しい大歳時記の中身を見てみたいと思うが、大きな歳時記は、いま使っている「日本大歳時記」で用が足りると思ってよさそうだ。

ここでいったん、まとめ。
紳士録商法を背景に集められた例句を、なんで読まされにゃあならんの? その手の玉石混淆なら、ふだんから飽きるくらい目にしている。

ところで、「自分の句が載っているから、買う、あるいは購読する」という行動様式は、この手の歳時記に限らない。結社誌がその最たるものかもしれない。俳句は、この手の商売に乗っかりやすいのだ。

理由のひとつは、俳句の短さにある。1名分のスペースはごくわずか。紳士録商法的歳時記で言えば、1頁に数十のカモ、もとい「現代俳人」の収録が可能で、きわめて効率がいい。結社誌でいえば、100頁に満たない小冊子に数百名分の「作品」の収録が可能だ。これは他の多くの文芸ではあり得ない。月会費を2000円とすれば、会員は、数センチ四方の「自句収録スペース」に2000円のショバ代を支払っているという見方もできる。

もうひとつの理由は、俳人一般の心性である。俳人というのは、自分の句がかわいくてしかたがないらしい。この稚気、未成熟、洗練の欠如を、どう解していいのか。これは他人事ではなく、私自身の俳句的日常にも重要な問題にはちがいない。

というわけで(どういうわけだ?)、歳時記を買うの巻は、まだ続くざんす。
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by tenki00 | 2006-07-15 08:35 | haiku
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