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互酬性

信治さんの「団地」50句についての記事を書いたが、それについての信治さんの記事がいつもながら含蓄。
http://uedas.blog38.fc2.com/blog-entry-65.html

句が読まれるということは、読者からの「贈与」。
それなくしては成立しない俳句の脆弱性とは、文脈依存性(過去のアーカイブ、読みのルール、仲間意識etc)であると換言する。それゆえ作者は特権的地位になく、句は、横のつながりにある「読者」なしには存在し得ない。

というわけ。

ところで、ね、「贈与」というものの本質の一部が「互酬性(reciprocity)」であることはモースの古典「贈与論」を引くまでもない。

と気取ってみた。わざわざ英単語書いたりモース引っ張ったり。

もちろん信治さんはそんなことは重々ご承知で、それが証拠に、「みなさんの作品を読ませて下さい」と、この記事を結んでいる。

俳句は、少なくとも現在の俳句は、この互酬性を、現実卑近な意味でも大事にしている。投句と選句によって成り立つ句会が典型。「読ませていただきますので、読んでください」が句会の土台になっている。

もっと卑近な話題に迂回すれば、「投句だけ」という句会参加スタイル。私には有り得ない。「読ませていただく」という行為を抜きに、自分の句を他人様に読んでいただくという暴挙にはとても出られない。互酬性を反故にする気は起きない。もちろん、人それぞれの考え方であって、「投句のみ」で句会に参加する人を非難するのではない。自分には有り得ないという話。

ともかく俳句における「(他人様の句を)読む・(自分の句を)読んでいただく」の互酬性が、「横のつながり」の維持によく機能する。自分の句を他人に読ませるだけで、他人の句を読む気のない人ばかりが集まる句座は長続きしない。

と、まあ、信治さんの高尚な記事を受けて、低俗なところに、ワンバウンドしてキャッチャー後ろにそらせるほど低めに暴投してみた。

無内容。

でもね、贈与とはコミュニケーションに他ならぬ。その把握から導き出される「互酬性」への今一度の着目は、それほど無意味ではない(と信じたい)。

〈詠む・読む〉はどちらも俳句にとって欠かせない。このことを誰もが口にするが、そのとき「自分にとって」という話であることが多い。どっちも勉強ンなる、といった乗り。そうじゃあないんだなあ。俳句そのものの存続にとって、互酬性=〈詠む・読む〉という習俗こそが不可欠なのだ。
by tenki00 | 2006-06-15 20:21 | haiku
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