「私」と俳句の関係

さて、たじまさんの記事「新しい態度~相対性俳句論(断片)」について、ちょっと書こうと思うが、これがなかなか難しい。たじまさんが扱うことは、たいていきわめてラディカル(根源的)だから、たじまさん自身、鋭く方向を定めて突き進んではいても、最後の最後のところで立ち止まってしまい、こちらも同じように立ちすくむしかないという状態に陥ることが多い。今回もそう。

つまり、話をそこから始めるかあ? そこまで行くかあ? というラディカリズム。

俳句に対して、作者がどのように関わるか。
なぜ、作らないでも生きていける俳句を、あなたは作るのか。


……ここで答える術を私は持たない。そこで、たじまさんはというと、

人間探究派が求めた「主体的であること」は、かたちを換えて、「正直であること」という新しい態度が、僕たち世代の俳句作家に求められているような気がする。

こう、とりあえず言葉を見つけるのだが、「正直」のその実の内容はまだ伝わってこない。とはいっても、私自身が、自分が「正直」、あるいは少し近い言葉で「誠実さ」、それを俳句を遊ぶにおいて、意識し、努力できているかどうかというと、そうでもない、ということはいえる。「正直」とは存外難しい態度かもしれぬ。

そこで、翻ってひとつ。たじまさんの挙げた「主体性」、歴史的脈絡の成分も多大なこの主体性に思いを致すとき、「なぜ、作らないでも生きていける俳句を、あなたは作るのか」という問いは、次のような変奏を持ち得る。「なぜ、他でもないあなたが俳句を作るのか」。

人間探究派の「主体性」とは、そういうことなのではないかと、私は把握している。いわゆる花鳥諷詠ではどうしても漏れてしまう、人間の、(思い切っていえば)人生の、(たじまさんも私もよく使う言葉を使えば)世界(universe)の、「事ども」がある。それをも詠もうとするとき、それまでの俳句とは別の射程にまで、俳句は到る。俳人の視線は及ぶ。だが、それだけでは、詠む対象、俳人の視界が広がったに過ぎない。そこで「主体性」という問題が出てくる。

主体性とは、ある俳人が、なぜ他でもない自分が、「それ」を俳句に詠むのかという問題とも向き合うということだ。資格や条件うんぬんという話ではない。特定の時代、特定の状況を生きる主体、ある一箇の取っ替えの効かない「個人」としての主体が俳句と関わるとき、その関わり方も、成果物としての句(作品)も、特定の時代・状況・個人(の存在証明)と密接に関わる。

ひらたく言えば、「私」と俳句の関係を、「いやあ、ハマるとなかなかおもしろいし、趣味でやってますわー」といったノリとは別の次元で問い直すということだろう。

だが、こうしてみると、前の記事で私が書いた俳句のアドバンテージは、アドバンテージではなくなる。俳句という型に凭れかかることに対して自制を利かせ、あるいは否定までしてしまう態度こそが、「主体性」(あるいは現在のたじまさんの言う「正直」)のひとつの側面だろう。

一方、主体性を問うという、ある種あつくるしい態度の対岸に、新・形式至上主義(クールでシュールな俳句的態度)があるというたじまさんの指摘は明快である。物事を単純化すれば、前記事で私が言った「フィルターとしての作者」は、この新形式至上主義とかなりの部分重なるかもしれない。そうなると、この立場にいるかぎりは、たじまさんの問い「なぜ、作らないでも生きていける俳句を、あなたは作るのか」は、それほど切実でもない。

なぜなら、作者の死は、あるとき、<私>の死である。きわめてスタイリッシュに俳句とつきあい、形式を偏愛するなら、「あなた」もなければ「わたし」もない。

とまあ、やっぱり、ややこしい話になっちゃうわけだ、私の場合。たじまさんのラディカリズムにつきうあうと。

わかりにくいだろうが、それはそれで、わかりやすくする必要は感じない。こうしたぐねぐねとした思考(というほどのものでもないが)の瞬間を引き起こしてくれるのが、たじまさんのラディカリズムなのだ。

そこで、最後に、余談的な展開。ちょっと話が違ってしまうかもしれないが。

以前、園をさんが、どこかの掲示板で書いておられた(と憶えている)「金子兜太は韻律の革新、摂津幸彦は意匠の革新」という把握(憶え違いなら深謝)は、きわめて示唆的だと思う。

兜太の句に歴史的な意味の主体性(の一ヴァージョン)を強く感じるのは間違いだろうか。幸彦に園をさんが使用された「意匠の革新」とは、クールな形式至上主義の行き着いた先とも思える。

っつうようなことだが、これはまた、ぐちゃぐちゃと考えたり感じたりしてみようと思う。ひとつ言えるのは、主体とか作者とか<私>とか、これは、俳句に限らず、もっとも厄介で、そうとうに手強い話題だということ。え? そんなことは初めからわかってるって? こりゃまた失礼しましたー(シャボン玉ホリデーの植木等風に、この記事、終わり)
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by tenki00 | 2006-06-03 00:03 | haiku
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