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谷ユースケ「正気の街」について

ハイクマシーンさんの緊急企画については、以前、記事にした。私も感想を書いてみようと思いたち、書いた。まずはユースケさん(最近なんだか絡んでますね)の50句から(「正気の街」50句はこちら

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「正気の街」はいわゆる意味の上で「了解」しやすい句群ではない。少なくとも私には、「わかりやすい」句はほとんどないが、それが読む妨げになることはない。一方、そのことと表裏を成して、といっていいのだろう、底割れのする句がほとんど見当たらないのは「正気の街」の大きな美点である。底割れとは、仕掛けや発想が明け透けに見えてしまうこと。俳句においてこれを回避することは容易ではない。その意味で「正気の街」は、俳句の持ってしまう灰汁、澱のようなものとは無縁のように思える。それが作者の資質によるものなのか周到な手当によるものなのかはわからない。

さっと一読、日にちを置いてから、かなりじっくりと二度、三度拝読して、私が感じたのは「屈託」ということだった。簡単に言ってしまうようだが、この屈託には肌理があり感触があり、それらの属性は作者固有のものと思える。これは大事なことだ。他の誰のでもない屈託だからだ。他の誰かでもいいような句は、いくら巧妙に設えてあったとしても、その人が作らなければならないというものでもない。作者からいえば、その句を作る必然は、「手習い的」に「称揚」されるのが嬉しいといったことくらいしか残らない。つまり、作るだけムダという側面もある。さて、「正気の街」である。

  初夢に中途半端な鉄ばかり ユースケ(以下同)

その一年はロクなことがなさそうだ。というよりも、きっと彼は初夢に何かを期待したわけではない。だが、鉄。それも中途半端な鉄とは、いかにも中途半端なヴィジョンではないか。悦ばしい事物で一直線に一年の始まりを祝うのでもなく、禍々しい展開でドラチックな感興を醸すでもなく、展開を飄々と裏切る軽やかさを持つでもなく、「鉄ばかり」の視界はその景もまた中途半端で、センチメントの中空に放置される。まあ、そんなこんなで、かなり微妙でおもしろいのだ、この「鉄」への展開は。

  マント吊る白い壁から逃げてきて
  口紅が退屈さうに凍りけり
  甘栗のあかるき五月来たりけり

こうした句に感じる屈託もなかなかに興趣のあるものだ。例えば3句目。「あかるき」「五月」の主役が、ほかでもない「甘栗」なのだ。もっと気持ちのよい句にもできるだろうが、と思ってしまうが、この作者はそうそう一直線ではない。屈託は自覚的でもあるのだろう。だから、含羞もある。

  なすびよく油を吸うて課長の死

「吸ひて」ではなく「吸うて」としたのは作者の「照れ」と見る。「課長の死」などという、ボロボロのどうでもいい座五に照れているのだ。さて、ここで屈託の出自は?と探ってみると、冒頭の3句が私には興味深い。

  お袋をひらけば春の霙かな
  春暁や前世の君の待ちぼうけ
  クッキーに雪崩の味のして二十歳

母を解明する、「君」を前世という虚構に置く。そうしたかなり「ややこしい」思考の手順を踏んだうえ、さて「自分」はというと、「雪崩味するクッキー」のような「二十歳」である。屈託は、作者にとって、大きな時間の末に、言い換えれば、自分からは作用できない「母」や「前世」の末に、「自分」が在るという事実から来る屈託かもしれない。

屈託はまた、思い切って恥ずかしい言い方をしてしまえば、外の世界(コスモス)と自己の軋みのようなものだろう。外界(世間)へと出ていくとき、作者と事物のひとつひとつとに軋みが生じる。「苦渋」「政治学史」とカギ括弧に詰め込まれた物言いが、私には興味深い(苦渋の句が化け字で不完全にしか読めないのが残念だが)。この2つは、最後まで作者と親和しない、外界の仕組みのように思えてくる。「 」を開いてみる気は今のところ、ないのだ。母をひらいたときのように春の霙が出てくる気がしないのだろう。

念のためにいえば、屈託は、世界と作者の相関、それもきわめて固有の相関においていえることで、作者の資質をいうものではない。ひらたくいえば、ここにある屈託とは、作者の内部にあるのではなく、作者と世界が接する皮膚のような場所にある屈託である。この屈託からは、むしろ作者の、まだ「生成(きなり)」の、悪くいえばナイーヴな、良くいえば健全な精神を感じる。そしてこの美しい一句。

  白菜の中に正気の街がある

この句の主眼が「街」であるなら、「正気な」とは舌足らずで、句全体が退屈なものとなる。これは「白菜」を詠んだ句である。すると、「正気の街」という措辞ががぜん生き生きと響きはじめ、美しい白菜が眼前に現れる。正気の街を内包した白菜。これをざくっと切って、出てくるのは、白菜の内部である。街などが出てくるはずはない。

あるとしても、そこには「正気」という目に見えないもの。それが形作る街であり、それはやはり目に見えない。ちなみに、ここに「狂気」を置くほどには、作者はナイーヴではない(言い換えれば、頭が悪くない)。「正気」は手強い。正気の世界の手強さを、作者はすでに知っている。だから軋み、屈託を産むのかもしれない。

以上が、私が「正気の街」に感じた屈託についての、なんだかんだの感想である。ご覧のとおり整理がついているわけではないし、整理して、どうとかというものでもないが、まあ、勝手なことを書いてみただけの話となった。

最後にひとつ、韻律のこと。この作者なら、ややぎくしゃくとして硬質な韻律を、私は好む。

  春昼の地球儀何度廻したことか
  氷菓上空芳しき晴間あり
  月白にジーンズ破れはじめたり
  木枯に乾ききつたるシャツは赤
  狐火や香港映画またはじまる
 
誤解を恐れずいえば、やや懐かしい昭和の韻律。一方、「かな」「けり」「もらふ」「して~」など、緩く柔らかな韻律の句も少なくないが、こちらにはあまり魅力を感じない。ついでにいえば、新仮名遣いに似合う句柄と思うが、このへんは、この手の俳句コンテストが「歴史的仮名遣い贔屓」であることから、戦術的に選択されたことでもあろう。表記にこだわるつもりはないが、歴史的仮名遣いとは相性の悪い作風とは思う。

ユースケさん。これからも御健吟を。
by tenki00 | 2006-04-20 22:57 | haiku
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